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好きな人の、寝顔。【物語・先の一打(せんのひとうち)】24

奈々瀬は息をひそめた。ドアの向こうには……

三十分だけ、といいながら、たぶん熟睡している四郎。
部屋と布団は、高橋さんの。
脇腹のけがで動きづらくて、片手には包帯をしていて、切った口と頬の腫れはマスクで隠している自分。


キスで起こす、なんていうのは、今日はムリ……
そうっと横に添い寝する、なんていうのも、今日はできない……歩くだけであちこち痛い。もしも、半分眠ったままの四郎に抱きしめられたら、脇腹が痛くて払いのけそう。そんなことになったら喧嘩になってしまいそう。

けがしてないほうの指で、そっと顔の輪郭をなぞってみたりとか……それならいいかも。
でも、目をあけた四郎にマスクでけがを隠した自分の顔をまじまじと見られるのも、それもどうだろうか。


きっと四郎は、シャープなあごの線をかたむけて眠っていて。
閉じた切れ長の二重瞼に、長いまつげで。
起きてるときは端正な居住まいの四郎が、布団から無防備に、腕でも投げ出してるかもしれなくて。
もしかすると、さびしさをまぎらすように、毛布を抱きしめて眠っているかもしれなくて。

くらくらする。ドキドキする。

はじめて寝顔を見ちゃう。

ドキドキを通りこして、きゅんきゅんする。


奈々瀬はそっと、高橋の部屋のドアノブを回した。

カチャ……

と、
かすかなドアノブの音をさせた。

ドアを半開きにしたそこには、敷布団の上に立てひざで、陸上のクラウチングスタートよりもっと殺気を抑えて、ビシっとこちらへ向き直っている四郎がいた。

「……」

「ごめん、俺けっこう寝とった」少しだけ息をはずませ、四郎は今にもとびかかりそうな姿勢を、少しだけ前傾から後もどりさせた。指で目頭の小さな目やにをぬぐった。

口を引き結んだまま、さてこの姿勢をどうしようかと、四郎は思った。


奈々瀬はドアをそのままに、さっさと食卓のテーブルに戻ってきた。
「あれ、どうしたの」
高橋は客用の茶碗に少しだけおじやをよそいながら、奈々瀬に聞いた。

「……起きた」不機嫌な奈々瀬の声。

高橋はしばし黙考した。それから天井を見て言った。

「まあほら、手負いの野生動物を保護しちゃった動物のお医者さんのオネエサン、みたいな……」言いかけてやめた。「……がっかり?」

《 そういうとこ  キモチ 汲まないで 》
奈々瀬はむすっとした顔で、机の紙に筆記用具で殴り書きをして、高橋にぐっとつきだした。高橋は苦笑いした。「ごめん、ごめん」


「俺、あかんことした? なぁて、どうせなあかんかった?」部屋から出てきた四郎が、奈々瀬の背中に声をかけた。必死な声。奈々瀬は

《別に》

と書いて見せて、少々乱暴に筆記具を机に置いた。

高橋が、(言ってもかきまぜるだけだな)と思いながら、四郎のうろたえぶりをなだめる意味で口を開く。

「四郎ね、ついこの間 ”宮垣先生みたいに、寝ぼけてお前に飛び蹴りをくらわしたらどうしよう” って深刻な顔をして僕に相談してたんだ。それがなかっただけ、まあよし、としてやってくれるかな? やがて、もしかすると奈々ちゃんの期待に反しないようなシチュエーションも、可能になるかもしれないし」
「え、俺、どういうあかんことしたの……」四郎は情けない声を出した。

何が情けないといって、体の一部は元気になってしまい、好きな相手は意図の読めないふくれっ面で背を向けてしまい、自分の質問には誰も答えてくれない。何が悪いのかがわからない。

高橋がオジサンから聞いた話で言うなら、この失敗感まみれな体験は ”青春” らしいのだった。だが、これが青春だとしたら、ほんとにひとつもいらない! ほしい人がいたら喜んでゆずる! 青春がうまくいかないことばかりなら、もう本日ただいまをもって、青春が永遠に終わってほしい!


高橋が口を開いた。四郎はほっとした気分に、少しだけなった。
二人きりだと解説がもらえないことにも、高橋がいれば解説がもらえる。
「四郎は、悪くないんだ。

自分は何か悪いことをした、という前提は、それが、その認識が、なくていいもんなんだ。そのはるか前に、赤ん坊の時に、ホントなら四郎は保障されてて承認されてて居場所を安全に確保されてて、その上で今、奈々ちゃんが奈々ちゃんの期待に反した出来事におかんむり、ってだけなんだ」

高橋が、すがるような目の四郎に言った。
それは半分、自分に言い聞かせるようだった。

「相手の期待は、相手の期待。それは、相手の頭の中の話。
四郎の反応は、四郎の反応。それは、四郎の世界の話。

四郎が自分にとって自然な反応をして、それに対して相手が四郎の予想外の反応をしたとしたら、それは相手が持っていた相手自身の期待に対して予想外だったというだけ。

お互いにね。お互い、その人の世界の話。

なんでもないときに合意しておいたことじゃないなら、急に必死に、合わせようとしたりしないで。その場ではまず、自分の世界の反応を大切にして。めいめいがね。

奈々ちゃんは自分の世界の自分の期待を大切にしたから、こういう反応をしている。

お前も、お前の世界のお前の反応を大切にするために、おちついて、まあよしと思ってやってくれるかな。

奈々ちゃんにどうすればよかったのか聞いて、無理やりそれをしようとしては、お前がお前の反応を否定してしまう。苦しくなって、反動がでちゃうよ。

ふうん、って思って流してて、大丈夫だ。

奈々ちゃんはお前を操作したり攻撃したり、支配したり、条件取引したり、する人じゃないよ。
もうすぐ十七歳になる女の子だよ。

気持ちが揺れたり、自分も落ち着かなかったりを、素直にやる人だよ。それだけ」

四郎はぼけっとした顔で高橋の話を聞いた。安心感のない自分がいけないのだ。安心感のない自分が、何かの読み違えをしたのだ。なんとか取り戻さないと。

そう思って問いかけた。

「俺、ここにおっても迷惑やない? 奈々瀬とつきあっても迷惑やない? 高橋俺の面倒みるの、迷惑やない? 俺自分の反応にうろたえんとおこうと思ってもええ? 俺こんなことしつこく聞いて、迷惑やない?」

高橋は三人分のおじやとすまし汁、男二人の膳に鯖の塩焼き、まんなかに火を入れた野菜の煮物を並べ終わって、

「いいにきまっている、とりあえず、おちつけ」

と言った。

「お互いに自分の反応に素直になって、ぶつかりながら、調整しながら、一緒にすごしてみようよ。遠慮したり、気がねしたり、無理に合わせたり、操作や支配や取引をしなかった一年と二週間に、全員が満たされるようにしようよ」

機嫌を少し直した奈々瀬が、食卓から立って、四郎におでこをつけにいった。「おはよ」

三人の夕食が、なんとなくはじまった。四郎は悲しげに鯖の塩焼きをむしった。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!