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やりきりました、ええ。死にそうです。--成長小説・秋の月、風の夜(113)

「いらっしゃいませ」黒服の原口が、丁重に声をかけた。うしろにも。「高橋さん、おかえりなさい」
「短い時間、おじゃまします」四郎が原口に声を返した。高橋は黙って、原口に「ごめん!」の手つきをした。

「おう、来たか」と宮垣は声をかけたが、その声は思ったほど腹の底からは出なかった。
女の子たちがしんと静まりかえった。理恵ママは、紺の背広の丈の高い白皙(はくせき)細身の青年をひとめみて、ちら、と宮垣をふりかえった。ワルい年寄りがこらしめられるの図ね、と、なぜか思った。

それほど、好もしさと近寄りがたさとをもちながら、四郎はすずしげに歩いてきた。「奥の人」は堂々たる威風をかくさずにいた。

すとすとと宮垣に近づき、四郎は「せんせい」と、ひとこと声をかけた。

宮垣はおもわず、目をつむった。じわりと額に汗が浮いた。
「……すまん。つい、悪ふざけがすぎた。ゆるせ」


気まずさ。

などというかわいい表現をはるかに通りすぎ、まるで常世の闇のような沈黙が、どっぷりと宮垣にのしかかった。
のしかかったどころか、内臓をつくっているひとつひとつの細胞に、おしこまれるようにしみわたった。


その場にいた全員が(お願いだから何か言ってくれ)と、渇望のような禁断症状のような奇妙なねがいにじれたころ、四郎は、そっとことばをはなった。
「俺はどんなことでも、喜んでするけど」

目を伏せた四郎の顔は、子供のようにはずかしげに見えた。まわりの皆は思った、この青年がゆるさぬことをしたのが、自分でなくてよかったと。

目撃することがとても珍しい野生のけものでもみるように、しんとしずまりかえって、まわりの誰もがだまって微笑んでいた。とにかく何か言ったら死ぬ。変な動きをしたら死ぬ。息も殺さなければ死ぬ。恐怖で叫びだしたら死ぬ。

笑顔のまま四郎は言った、「俺の親友が俺のために何でもしてくれることぐらい、先生よう知っとりゃーすやん。知っとって、やーがらかすようなこと、せんといて。俺、自分の大事なひとが大事にされやへんのは、いやや」

小学生が校長先生に、鉛筆一本の話をするように、四郎は言った。
言っていいのか悪いのか、確信を持たぬようでさえあった。周りの誰もが、微笑したまま息を止めていた。

その伝え方はあまりに控えめで、その一方で、この高級クラブのあるビルの同じフロアがまるごと、四郎に場の統制を持っていかれたに違いなかった。
現象面では宮垣が四郎に、ひとことお願いされているにすぎない。
けれどもまるで、四郎が自在にたてきった防火扉の内側に全員が放り込まれたようだった。なにもなくって、あまりにもなにもすがるものがなくって、息をすることさえも、この青年に許可を求めないとならない扉の内側に。

やわらかい冷たい残酷さが、ぎゅうっと宮垣の胃の腑にねじこまれるのが、ありありと見えるようだ。
見ている全員が、自分が報復されたらとても耐えられないという恐怖にどっぷりつかった。報復どころか、おずおずとくぎを刺されているにすぎないのに。

してはいけないことを、してはいけない相手にした結果は、かくも凄惨なのだ。

四郎の言う、「自分にとって大切な人に、いやがらせをせずに大切にしてください」……という願いは、まるでそうしなければ毎夜毎夜悪夢を見続けそうなほど、やわらかく全員をおしつつんだ。

おしつつみ、ひしぎ、全身の細胞にじっとりとしみわたった。

「申し訳ないっ」
宮垣はそれでも、稀代の武芸者はさすがにそうであろう、常人なら立てぬこの状況で、椅子から立った。立って四郎に、そして後ろの高橋に、頭を下げてみせた。
見とどけた四郎は、何も言わぬまま、きびすを返して出口へあるきはじめた。周りの者が全員、恐怖を眼前にくり広げられて、凍りついた微笑のまま黙っているなかを、歩いていった。

「宮垣先生、お先に失礼します、ごゆっくり……せっかくですから、ご気分を直してお楽しみください」高橋はそうっと声をかけて、入口へ歩く四郎のあとを追い、去った。

宮垣のテーブルから三卓ほど離れた席で、ひそっとした声と、つぶやきがあがった。

「耕造先生、ほんとうはあんな友情、耕造先生がほしくて、いじわるでつついてごらんになったんじゃないんですの」
理恵ママはそっと、風の森をついだ。

一分ほどたってやっと、「……命拾い、だ……悪ふざけが……すぎた」と、宮垣がうめいた。

せっかくアテンドの実地研修をいろいろおぜん立てしてくれた理恵ママたちには悪かった。が、うろうろと電車に乗ってきた四郎を、そのまま一人で帰すのがはばかられた。
それで高橋は、さっさと四郎を車に乗せて帰ってきてしまった。
後日ひとりで礼を言いに行くつもりだ。

「四郎」
高橋は四郎が淹れてくれたコーヒーの、マグカップを両手であたためるようにした。
かたわらには冷凍便で四郎が送っておいてくれた月見団子。甘辛だれときなこを用意してみた。

例によってやっぱりちょっとだけ、うすぬるーいコーヒー。
器用なところは器用な四郎が、コーヒーについてはボディのパンチを出すコツをつかめないのは、常温水を無造作に飲むクセがあるからだろうか。湯を注ぐとき、たっぷりと一度に入れてしまうのだろう。おもしろいことだった。
うすぬるーくぼやけたコーヒーが四郎らしくて、高橋にはなんとなく嬉しかった。


さきほど宮垣にくぎをさして、おちつきはらってクラブのドアを出て、エレベーターで駐車場に降り、シルバーのA4アバントの助手席にすべりこんだ直後……

ぎゅううううっと両腕で自分の身をつかみしめて、四郎はぐううっと丸まって声をしぼり出した。「きっつい……ご先祖さまんらぁ、堪忍してくれっ」
完全に泣き声だ。

「とにかく車出すから」と、あわてて高橋は駐車場から地上へ滑り出て、追いまくられるようなスピードで自宅に戻った。

助手席ではたっぷり四分ほど、
――エサぁー、エサぁー、あんなにおったのにぃー、なんでいっこぐらいあかんのぉぉおおおおぉぉぉおおお、よこせぇえええぇえぇぇエサぁぁあああー
うんぬんかんぬん、ご先祖さまたちの繰り言というか恨み言というか、ぞわぞわざわざわ、ぐちゃぐちゃぬらぬらとわいてくるご先祖さまたちの、女の血を求め首をへし折りたがりエサをほしがる声々がやまなかった。数は減ったといってもわずか1/100、つまり残りは百のうち九十九あたり。

無謀。そうだ無謀だ。
あんなにご先祖さま好みのエサが二十人も三十人もいる中に、すとすと歩いていくなんて。


「だから入らずに帰ろうって言ったのに!」高橋はおろおろとつぶやきながら、とにかくハンドルにしがみついて運転を続けた。

あのときの驟雨の中より、もっとひどい。

助手席の声がぶつぶつぞわぞわぐちゃぐちゃわき返って、もう四郎の体より高く高く、ずっとずっと邪気のあふれたのが植物みたいにどんどん出てきて、人間が冬虫夏草になったらこんなんなっちゃうんじゃないかというぐらい手に負えなかった。

四分経過したころ、四郎がこわいこえで
「ご先祖さまんら、もうええかげんだまらんと、全員死んどるけどこんどこそほんとに影も形もなくなるぐらい滅ぼしつくすぞ、ええか。これは俺の体で、あんたらの遊び場やない、わかっとんさるか」

と、くぎをさしたとたん、意外にもぱたりとすべての声がやんだのだった。
高橋にとっては、もうとにかくこわかった。死ぬほどこわかった。


そのあと四郎が淹れてくれた、うすぬるーいコーヒーなのだった。


「僕は宮垣のジジイの力を借りて、僕の腹の底の感覚について取り組まなきゃいけない。つまり、イヤだけどそうすることに決めた」
ひとりごとのように、高橋はそう言った。なので四郎も、あいづちをうたずに黙って聞いた。

「いつも四郎を交えて三人でばかり会うのは得策じゃない。なぜなら宮垣のジジイは僕と二人きりのときにだけ、僕を無意識にいろいろぶっ刺して来るのだろうから。ときどき二人で会う。そのかわり僕と宮垣のジジイが二人で会ったあとで振り返りを一緒にやってくれ」

四郎は高橋の目をじっと見つめた。

人に背中を預けられる体験は、たしかに康おじにはそうされていた。けれども康三郎に惚れられているせいで、いまひとつ居心地のよさは決まらなかった、つまりこちらが警戒心を解くことをしきらないままだった。

親友が手放しで背中を預けてくれているとき、それは何かが決定的に肯定されたような感覚をもたらしていた。肯定感でもなく誇らしげな感じでもなく、高揚でもなく、それはしずかでどっしりとしていた。

「ひとりで行くんか」
一緒に砂場で遊ぶ約束をしたのに、というように、四郎はたずねた。あまりにも素朴な声音に、高橋はつい笑った。「ときどきかな。ついてきてもらおうかな」

「俺高橋と一緒がええな。ちょっと前まで、勤務時間は学校の時間割とおんなじで、特別に曲げてもらうことなんかできやへんと思っとったけど、宮垣先生と有馬先生の仕事両方やらせてもらうで、えらい上手にしごと組みなおしてもらったやん。宮垣先生んとこに、かなりの時間、顔出しとれるでさ。現地集合でもええし、一緒に行けたら行くのもええ」
四郎はそんな風に、うれしそうに言った。

黙りこくっていて急に、高橋はぼそりと告げた。「会うなって言われてるんだ」
「俺に?」四郎の瞳孔が、わずかに開いた。

「僕が背負いたがりなのを、四郎のご先祖さまが見抜いてて、何体か憑依して入り込んでたから。面倒みきらんぞって」

四郎の目が、きっとなった。

「それやったらなおのこと、一緒に面倒みてもらわんならん」四郎は急にはっきりとした口調で言った。「残党狩りにねぐら残しとくたわけがおるか。お前の優しい気持ちが入り込む穴になるんなら、徹底的にふさがるかどうか俺が見届けたる」

「……ご先祖さまだぞ」高橋は、四郎と奈々瀬のデートの際、ご先祖さまたちをありったけ脅した自分を棚にあげて、思わず聞いた。

四郎は酷薄な目を、まっすぐ高橋にふりむけて語る。
「いっくらご先祖さまでも、相手は憑依霊やないか。生きた人間にとりつかせたらあかん、ましてやお前に一体でもひっつかせるか」
そして、燃えるような気迫を腹の底に置いたまま、高橋の体に向かってひそりと言った。「おるなら今すぐ出よよ。俺はともかく、高橋にもぐりこむなんてって、俺が許いたるとでも思ったか」

「あっ」高橋はみぞおちを押さえた。体からなにか、うごめくものが抜け出た。

ぞっとした。

あのとき、四郎をいじめるな、取りつくなら僕にとりつけ、とうっかり思ったのだった。

自分が甘いのだ。甘いからとりつかれるのだ。
穴になり憑依霊と結び合う甘い心持ちは、やはり宮垣に点検してもらわねばなるまい。

四郎はじっと高橋のみぞおちの気配を伺い、もうなにもいないと感覚して、高橋に語った。
「俺ら、割と単純な考え方でな。もしも一族郎党を二つに割らなんときには、誰がどっち方につくか決めたら、徹底的にやる。寝返ったら本領安堵してくだれるてって確約がもらえとらん場合は、なるべく鉢合わせんようにあれこれするけども、万が一相まみえたら、兄弟やろうが親子やろうが関係なしやてって教わっとる。俺ら、そういう保険のかけ方してきたんやて」
すっきりと述べてから、四郎は眉をくもらせ息をついた。「……むごいな。人非人だらけで、どもならん状態になるわけや」

「きまじめすぎたんじゃないのか。親子互いにかばねを踏み越えて戦い続ける東国武士団より、なお苛烈だ」

「こんな性質残しといても、何の役にも立たんわな。性質変えれるんなら変えたらんとあかん。変えれんなら俺の代で終わりにしたらんと」
四郎はそんな風につぶやいた。

――どうにもならなくなったらおいで、君のこと、本当にほしい。
と言った、青沼みさきの私兵集団を思い出していた。
この性質がひどく役に立つ場所はある。けれども自分はそこに所属したくはない。

そして、「あれっ」ときょろきょろした。「俺のスマホ鳴っとる、どこ置いた」


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もくろみ・目次・登場人物紹介

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!