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民主主義はたのしい。その事実に気づくこと。

民主主義はたのしい。その事実に気づくこと。

「与党は嫌だけど、野党も頼りない。」

そんな意見をよく目にするわけです。
そして誠実な野党は、懸命にその問いに応えなければ、
と対策を立てていますね。

人の意見に耳を貸して、それに対応するのであれば、
そこにはマーケティング的な観点が必要だと思っています。

マーケティング的な観点を肯定したいわけではないのですが、
「本当の課題はなんなのか?」というところを見誤ると、
どんなに対策を講じても思った成果がでないのは明らかですからね。

課題を見極めるためには、
対象となる「ターゲット」の分析が必要です。

今回の場合、それは「有権者」であり、
その中でも「投票しない有権者」ということになります。

どうして「投票しない有権者」と設定するかと言えば、
「与党も嫌だけど、野党も頼りない」のあとには、
「だからどこも選べない」とか「だから投票しない」という
下の句が待っているからなんですね。

これは「投票に行かない人」を投票行動に向かわせるための対策です。
そして、実はいちばん重要な対策でもあります。

だってどちらかを圧倒的に支持している人の意志を変えることは
ほとんど不可能ですからね。
今の段階で現実味のないことを
マーケティング目標として設定しても意味がありません。

では、「投票しない有権者」はいったいなぜ投票しないのか。
そこに向き合うことになりますよね。

一応いま、その理由は
「与党も嫌だけど、野党も頼りない」からなのであって、
だから野党は頼ってもらえるにはどうしたらいいか?
と試行錯誤しています。

だって、誠実で真面目ですからね。

例えばいま、立憲民主党はそのアクションとして、
「提案する」ということを前面に押し出しています。

なぜ野党は頼りないのか?と聞かれれば、
「野党は批判ばかりだからだ」という人がいるからですね。
その対策として、実際はたくさんの提案をしていることを
有権者に理解してもらおう、という考え方です。

なるほど、とても理にかなっています。

でも、私は「本当にそうなのだろうか?」と感じています。

「野党は批判ばかり」という有権者の対応について
政治記者がメディアにいろいろ書き立てます。
野党はそれに右往左往します。

しかし、思うのは、そういう有権者の人々は、
そもそもそんな政治記事を読んでいますか?ということ。

このゲームのターゲット像は
ちゃんと明確化されているのだろうか?ということです。

そもそも政治や選挙に興味関心のある人というのは、
投票には行っているのではないでしょうかね。

例え白票を投じたとしても、それだって意志表示であって、
投票には行っている。参加しているわけです。

それに、そのような意見というのは、
そもそもいったい誰の声なのか?ということが気になります。
データに頼るのであれば、そのアンケートは
「誰に聞いているのか?」が重要なのは当たり前です。

恐らく、そのとき質問を受けている対象は、
「広く一般の市民」ではないでしょうかね。
政治への関心度合いはさまざまな「一般市民」を対象にしないと、
一般的な有権者の声にはなりませんからね。

しかし、そこに選挙や政治のパラドックスがあるのです。
民主主義は、有権者が社会に参加し、社会に意識を向けている、
という状態を前提に設計された政治システムです。

無関心層を考慮に入れていないということ。

だからこそ「民意に従うべき」という一般論が通じるのであって、
民意がまちがってばかりいれば、
民意に従う民主主義は悪政の原因になります。
民意が正しい可能性を高めるには、
有権者ひとりひとりが、普段からしっかり考えている必要がある。

でも、実際はそうなっていませんよね?
そこがすべての矛盾の源泉ではないでしょうかね。

でも、言えないんですよ。政治家たちは。
だって有権者はお客様ですから。
お客様に嫌われるようなこと、言えるわけないです。
自分に投票してもらえなくなりますからね・・・

そうすると、今度は有権者の人々が、
あまり考えなくなってしまうわけです。
そもそも考えるのって面倒臭いですからね。
なぜお客様たる我々有権者が
そんな面倒臭いことをしなくちゃならんのか?と。

政治家や政治は、もっと有権者にサービスすべきだろう?と。
もっとわかりやすく、いい気分にさせてくれよ、と。
そうでないなら、そっぽ向くよ、というわけです。

ホラ、これが今起きている悪循環です。

民主主義を、政治家と有権者で、よってたかって
無責任でつまらないものにしてしまっているのです。

ちがうでしょうか。

端的に言えば、
アンケートで政治や選挙などについて聞かれた人は、
普段そんなこと、これっぽっちも考えていない。

けれど、考えなきゃならんという世間体くらいは持っているので、
聞かれたときは、いかにも自分が考えているように見せたい。

つまりちゃんと関心があると装いたい。

そんなときに、野党の責任に押し付けているんですね。
自分の無関心の言い訳に野党を利用しているだけなのです。

野党には、政権与党を批判するという重要な役割があります。
そして、日本の野党は政権運営をした経験はほぼゼロですから、
任せたらどうなるのか?ということは誰にもわからない。

そういう現実的な条件を利用して、
「野党は批判ばかりで、頼りない」という
非の打ち所のないリーズンワードにたどり着くわけです。

「参加したいのは山々だけど、野党がこんなじゃねぇ・・・」

しかし、これは、無関心の正当化のための隠れ蓑です。
少なくともそういう可能性が大きい。
あまり公言しなくても、内心そう感じている人はいるはずです。

もちろん、野党の弱点はたくさんあるので、
真摯に受け止める必要はあるでしょう。
しかし、これを「本当の理由」として課題設定すると、
間違った結果になるのではないかな?と私は思っています。

仮に、選挙で投票に行かない理由が
「野党は批判ばかりで、頼りないから」ではないとします。

そうなると、本当の理由が必要ですね。

端的に言えば、
私はそれは「面倒臭いから」だと思っています。

関心がないから、だけでなく、面倒臭いのですね。

例えば地方の選挙区では、「頼まれたから投票する」という行動は
それほど珍しい現象ではありません。
そしてそれは、主に自民党の独断場でしょう。

そのとき、投票する人は、一応、面倒な
「投票する」という行動はしているわけで、
そうするに至るには理由があるはずですね。

「支持しているから」という場合もあるでしょうが、
その多くは「別にどこでもいい」ということと
「周りとつつがなく、うまくやるため」ではないでしょうか。

そうすることで、自分の生活の平穏を保てる、ということがあるのですね。

だとすると「投票に行こう!」という
言葉が向けられている人のペルソナはどんなものでしょうか?
それは投票に関してどこに対しても縁も義理もなく、
面倒臭さでその票を捨てることができる環境にある人です。

彼らが投票に行かない理由は、
やはり「無関心」であり「面倒臭さ」だと思うのです。
でも、「面倒臭い」にフォーカスを当てすぎると、
ネット投票にすればいいのでは?という
物理的で表層的なソリューションに意識がいきがちになります。

それはもちろん有効でしょうが、
課題の根本解決にはなりません。

そう考えていくと、投票すると何かがもらえるとか、
何かが割引になるといった選挙とは関係のない「インセンティブ」で
投票行動に向かわせることもまちがいであることがわかるでしょう。

行動の動機を本質とは別のところに設定すると、
大元の価値(この場合で言えば投票権の価値)を毀損してしまって、
結果的にはマイナスの効果になってしまうものです。

では、「野党は批判ばかりで頼りない」に対応する
本当の対応策って、一体なんでしょうか?

ふたつ、たとえ話をします。

ひとつは「自分ごと化」の例です。
例えば宝くじを買っていないのに、その当選番号に興味がある人はいません。
例えば馬券を買っていない人と、買った人では、
レースの結果への関心度はちがいがあるでしょう。

宝くじや競馬がより強く「自分ごと化」されているからです。

例えば会社などから頼まれて選挙で投票した人は、
「義理を果たす」ということだけが目的なので
誰が当選したかについては、それほど関心がないかもしれません。

それは選挙の結果が自分には関係がない、と思っているからですね。

選挙権というものは、国から付与されたものであって、
宝くじや馬券のように、
自分で欲しいと思って手にいれたものではありません。
そういう受け身な状態である「選挙」を、
競馬や宝くじのように、どうやって「自分ごと化するか」という課題です。

もちろん、競馬や宝くじは「一攫千金」という
わかりやすい夢と直接の利益があります。
選挙には、それがないのでしょうか? いや、ありますね。
夢や希望は存在しています。でも、それが伝わっていないということです。

その点、一考の余地がありますね。

もうひとつの例。
それは、スポーツの試合を思い浮かべてください。
なんでもいいですが、ここは野球にしましょうか。

野球の試合をするとき、いきなり試合だけをする人、というのはいません。

ちゃんと練習しますね。
いやむしろ、試合をしている時間より、
練習をしている時間の方が長いはずです。

守備の練習や走塁の練習、打撃の練習など、
様々なことを日々、意識し、練習することによって、
試合という本番に備えますよね。

そうなると、例えば野球少年の日常とは、
ほとんどが練習の日常なのです。

これはスポーツだけでなく、楽器の練習なども同じです。
一度も練習しないで突然ピアノの発表会をやる人はいないし、
バンドでライブをやる人もいないでしょう。

活動のほとんどは「練習」に費やされるのです。

では、その練習に明け暮れる人々というのは、
一体、どうしてそんなことをするのでしょうかね?
なぜ頑張って、日々、鍛錬するのか、と言えば、
それは試合や発表会でいいパフォーマンスをすることが、
自分ごと化されているからですね。

自分ごと化されているとは、
その事象の楽しさや魅力を理解しているということです。

だから自分ごと化されている人ほど、苦しい練習も自ら取り組むし、
自分ごと化されている人ほど、いいサイクルになっていく。

逆に自分ごと化されていないと、
面倒臭さや苦しさに負けてしまうものです。

そして、傍観者の人たちは決まってこう言いますね。
「よくそんなことできるね」「私には無理」
「君は才能があるんだね」などなど

よく聞く話じゃありませんか?

これ、「民主主義」にも言えることなんです。

例えば選挙を民主主義の試合と例えてみるとすると、
民主主義の練習はなんでしょうか。

それは政治について、常日頃から考え、意見を持ち、
人と対話するという習慣や文化です。

イギリスやフランスなど、議会制民主主義に誇りを持つ国々の人々は、
日常会話の中で政治の話をするのが当たり前だと言います。
それは「文化」になるわけですね。

そういう文化の中にいると、投票するということは
わざわざ頼まれたり、インセンティブに促されてすることではない。
自分が参加することで、
結果が変わってくることをわかっているわけだから、
日々の練習にも気合が入るし、試合は結果が楽しみになる。

そういうサイクルになっているわけです。

・・・ということは、です。

「野党は批判ばかり」とか「与党も嫌だけど、野党は頼りない」と言って
投票所に背を向けている人に対する本当の対策は、
政治の面白さを気づかせることだと思うんですね。

政治に参加する面白さです。

自分たち次第で社会を変えることができる、という面白さです。
もちろんそこには「失敗」もあるかもしれません。

しかし、いちどの失敗で野球を辞める人や、
音楽をやめる人はいないでしょう。
なぜなら失敗から学ぶ、ということを学ぶからです。

政治の失敗は暮らしに関わります。
でも、だからといって恐れてはいけないのです。
「失敗」したなら、なぜ失敗したのかを考え、
次への糧にすればいい。それだけのことなのです。

その失敗を乗り越えれば、
より良い解に近づけるというのが事実なんですからね。

今、この国は極度に「失敗」を恐れるあまり、
足がすくんで前に一歩も出せない、という病気にかかっています。
凋落の中にありながら、かつての栄光があるからこそ、
「これ以上落ちたくない」という消極性に取り憑かれています。

しかし、目を見開けば、実はできないことなどないのだ、
ということに気づくはずです。

ただし、それはラクではないし、結構、過酷です。
でも、向き合うしかないんですね。勇気を出して。
なぜなら、それが「面白くて、楽しいから」です。

とりとめもないことを書きましたが、答えはひとつなのです。

政治は、おもしろい。選挙は、たのしい。(ただし参加をすれば)

「野党は批判ばかり」の対応策は、
その事実に気づかせることしかないのです。

そうすれば、投票してくださいとお願いしなくても、
勝手に投票してくれることでしょう。
そういうことが当たり前になるというのは、
民主主義という文化をつくることなんですね。

民主主義のおもしろさを知るには、
みんなが集まって、人と対話することです。

出向いてみること。
人と接すること。
話すこと。
言葉にしてみること。
つながってみること。

実際にやってみることで、楽しさ、面白さがわかってきます。
まるで好きなアーティストのライブコンサートに行くように、
街頭演説を聞き、対話をする。

今まで、日本に根付かなかったそういう文化が、
いま、生まれ出ようとしていることを感じます。

来年は、草の根民主主義の萌芽の一年にしましょう。

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