生きるのと、活きるのは、どちらが楽しいか。

先日の衆議院選挙の投票率は55%。
戦後、3番目に低いものでした。

これが、平和で経済的にも安定していて、
社会課題が存在しない状態なら理解できます。

しかし、今私たちは、人類の歴史に残るような
パンデミックの渦中にあるわけですよね。
そしてそこで、日本という国家の運営体制が、
政府も、民間も(つまり私たち自身も)、ボロボロである、
ということをまざまざと見せつけられたわけです。

ですから、今回の選挙は投票率が高くならなければいけなかったと、
私は感じています。
どこの政党が勝つ、とか、負ける、ということ以上に、
我々が投票行動をする、という事実があるかどうかが重要でした。

なぜなら、それは、我々自身が、自分の未来を真剣に考えているか?
というバロメーターになるからです。
そして、この人類史に残るパンデミックが押し上げた日本人の投票率が、
わずか5%だったという日本人の「不感症」に、私は危惧を感じています。

まず、私のこの記事を、投票に行かない人は読まないでしょう。
そのことも理解しつつ、彼らを動かすためではなく、
投票に行ったような「関心」のある人に何を共有すべきかを考え、
いま、こうして書いています。

まず、若い世代だけでなく、多くの有権者から、
「政治家は、政治の話を簡単に伝えてくれ。」という要望があります。

これは、とても危険なことなのですね。
そのような要望は、「自民党をぶっこわす」とか、
「日本を取り戻す」とか「この道しかない」とか、
そんな「中身が完全に存在しない」言葉を誘発するからですね。

政治家の方も、結局、国民には難しい話は通じないのだから、と、
中身を詳しく考える必要はない、という環境を生みます。

では、例えば「国民を豊かにします!」なんていう言葉があったとして、
実際、選挙のたびに政治家はそういうわけですが、
我々日本人の所得は1997年をピークに
下落をつづけているという事実からして、
政治家は嘘しか言っていないか、
言ったことの実現に失敗しているわけですね。

企業の社長であれば、なんども会社を潰してきているわけです。

そのことに気づいた有権者は、「どうやって?」と問います。
とうやって我々を豊かにするのか?その具体的な方法は?と。

実は、主に野党の政治家たちは、
そのように有権者に問われるのを望んでいます。

なぜなら、政権にある与党は実際に行政を実施する立場ですから、
返ってあまり中身のことを議論できないのですね。
自分を批判できませんから。
それに対して、政策論議をしたがっているのは、実は野党の方です。
野党には「もっとこうした方がいい」という意見がある。

そうなっています。

しかし、いざ「具体的にどうやって実現するのか?」という
質問をした有権者に
真剣に回答しようとすると、有権者は耳を塞ぐのです。

「難しい! わかるように簡単に説明してくれ!」と。

ここがジレンマなのですね。
なぜなら、具体的な話は決して簡単にならないからです。
それは政治の分野に関わらず、あらゆることに言える理なはずです。

人と何かの分野の会話をしたければ、
そこで交わされる言語を共有しなければいけません。
すべてがわからなかったとしても、わかる努力をするのが当たり前だし、
簡単な言葉を導き出すための質問ができるはずですね。

「もっと簡単に言え」というのは、あまりにも乱暴です。
だって、有権者はこちらなのですから。
有権者は「お客様」ではありません。主体です。

先日、NHKのBS1で、衆院選のときに若者の政治関心をあげるために、
様々な活動に取り組むZ世代と呼ばれる若者たちを追った
ドキュメンタリーが放送されました。

とてもいい内容でしたが、やはり、考えさせられました。

活動をしている若者たちは、なぜ活動をするのか。
それは「自分で気づいた」からです。
そして、まだ気づいていない若者たちに気づきを与えたい。

でも、思い通りにいかないんですね。
私もずっとそれと同じことを悩んできました。

本音で言えば、やっぱり有権者が悪いのだと私は思っています。
有権者が優れていれば、悪い政治家は存在できないのですから。
よく有権者と政治家はニワトリとタマゴの関係だと言いますが、
私は圧倒的に「有権者が変わるしかない」と思っています。

政治家のせいにしている間は、何も変わることがない。
そう思うんですね。

番組の中でも、若者に伝えるために動画を作る、というシーンがあって、
伝わりやすい言葉を吟味しているんですね。
そのとき「共有という言葉は難しい」という意見が出たのです。

私は唸ってしまいました。

子どもに向けているのではないのです。
残酷なようですが、はっきり言えば、
「共有」が難しい人間に、選挙は無理です。

そんな「お客様体質」の人に、社会参加は無理だからです。

もちろん、諦めるつもりはありません。
実際の投票を目前にした状況では、「理解できる言葉」を選ぶしかない。
でも、結局、伝わらないと思います。

以前、『コミュニケーションの責任の半分は「聞く側にある』という
記事を書きましたが、
https://note.com/tkma_fkng/n/n0233d3bafcb3
聴く側に聴く力がないと、コミュニケーションは成立しません。

コミュニケーションできない相手との課題を
コミュニケーションで解決しようとすることに無理がある。
つまり、民主主義を正しく機能させるのは、
人をコミュニケーションできる人材に育てておかなければいけないのです。

我々が向き合わなければいけない問題の本質は、ここにあるのです。

伝わらない人に、どうしたら伝わるのか。
それを考えるのは重要です。

広告はそれをやっていますね。
でも、広告というのは
「気分の良いコミュニケーション」しかできないのです。

もっと真剣に考えよう、という啓蒙的なものは、
ほとんど成功しません。
この手のコミュニケーションが成立するには、
広告の力が半分と、社会が課題を受け入れられるという
社会の意識の高さが半分、必要なのです。

では、日本はどうか?

日本はおそらく、世界の中でもトップレベルに、
社会課題への意識が低い国になっています。

それが各種の調査から明らかになっていますが、
問題は、日本人自身が、その事実を認識できていないことです。

日本は優れていて意識が高い国だと思い込んでいる。
島国なので自らを客観視しにくい地政学的な弱点があるのですが、
それをまったく克服できていないのですね。

かつては高かった大学のレベルも、学力のレベルも、
どんどん落ちています。
だって大学生が「共有という言葉が難しい」と言うのですから。

つまりこれは、教育の問題なのですね。
解決策は教育であり、少し時間がかかるのです。

私が今の日本の問題だと思うことは、
人々が何かに興味や関心を持つ力、
それを私は「関心力」と名付けていますが、
全世代的に「関心力」が低下していることなんですね。

今、世界は社会課題の時代です。
社会課題は関心を持たなければ見えないものですが、
世界全体がそこに目を向けて、その解決に前進しようとしています。

それなのに、日本は国家を挙げてそっぽ向こうと必死です。

こんなことをつづけていれば、日本は2030年には世界でも
最も「存在意義のない国」になっていることはまちがいないと思います。

関心力は、実は生きる力そのものです。

例えば、「みる」には漢字がふたつあります。
無意識に映像が目に入る「見る」と、
情報を受け止める意図を持って「観る」ですね。

「きく」もふたつあります。
流れてきた音が耳に入る「聞く」と、
内容について知ろうとする「聴く」です。

両者のちがいは「意識」ですね。

同じようなことを「いきる」にあてはめてみると、
例えば、流れる時間をただ死なずに過ごすことを「生きる」、
何かしらの目的意識を持って過ごすことを「活きる」だとしましょう。
(勝手にあてているだけです)

あなたは「生きている」のか「活きている」のか。

そういうことですね。
その根元にあるのは何かに「関心」とか「興味」を持っているか、
ということだと思うのですね。

本当に知りたいことは、それを学ぼうとすることに苦はない。
そのことに気づいている人生と、気づいていない人生では、
私は後者は圧倒的にもったいないと思っています。

教育が与えるべき気づきとは、そこだと思います。
興味・関心を持つと、この世はとても面白い。
同じ時間を生きるなら、面白い人生を送った方がいい。

そういうことだと思うんですね。
大学生にもなって「共有」という言葉が難しいという人生は、
とてももったいないのです。
その理由は、人生を楽しめていないからです。

そんなことを知らなくても、俺は十分楽しんでいるぜ!
と思った人は、それなら、両方試してみるといいです。

いろいろ知っている状態になってみるといいです。
そうしてから、どっちも同じか、
いやどっちの方が楽しいかを判断すべきですね。

人生はいちどですから。

どんなにAIが進歩しても、AIは道具にしかしてはいけません。
生きる主体は我々なのです。

AIに考えさせたり、AIに決めさせてはいけません。
それでは人生を活きていないからです。

AIはスマホに言い換えてくださいね。
スマホに人生を決めさせてはいけません。

自分で観て、自分で聴いて、自分で考えて、自分の人生を活きる。
それはとても面白い生き方なのだと思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?