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コミュニケーションの責任の半分は、「聞く側」にある。

今、仕事でネーミング策定の作業をやっています。
私はその進行を任されていて、
メンバーから公募した100以上のネーミング案を
段階的に絞っていきます。

絞るたびにメンバーに情報共有するわけですが、
中には「この選定になった理由はなんなのか」ということを
知りたがる人もいます。

昨日、ネーミングの打ち合わせのときに、
ある方がおっしゃっていた言葉。

「実はずっとこの選定にモヤモヤしていたけれど、
 今日、TKMAさんからの説明を直接聞いてわかった。
 でも、直接話を聞けない人にはわからないのではないか」

そういう内容でした。

このことについて、ずっと考えていて、ふと思ったのですよね。
「これは社会の縮図である」と。

100案以上あるネーミング案から案を絞っていくとき、
私がどんな気持ちで、どんな意図で、絞って行ったのかを
考えてみてくれた人はいたでしょうか?

様々な人から様々な意見をいただき、それを頭の中に入れた上で、
ああでもない、こうでもないと考えて、
それで、あるときに勇気を持って線を引く、ということをするわけです。

でも、多くの人には、そのプロセスは想像できないから、
最終のアウトプットだけしか見えない。

テキトーに選んだのではないか?と思う人もいるかも知れないし、
選ばれなかったことを不服と感じる人もいるかも知れない。

これって、実は会社の経営でも、誰かにプレゼントをあげるのでも、
家の晩ご飯でも同じなんですよね。

受け手には最終アウトプットしか見えない。
会社であれば、組織や制度。プレゼントや晩ご飯は、それそのもの。
でも、それぞれにその前に、考えている人や、選んだ人、
作る人の行為と、その想いがあるんですよね。

もちろん、ない場合や、足りない場合もあるのでしょうけどね。

受け取った方というのは、「なんだよ、この制度」とか
「もっとちがう色が良かった」とか「ちょっと味が薄い」とか、
罪もなく平気で言ってしまうのかも知れません。

けれど、言われた方というのは、そこには見えない労力、
かけた思考や想いというのがある。

「人の気も知らないで」という言葉がありますが、
この手のマインド上のコミュニケーション不全は、
世の中の至る所で起きているわけです。

私が学生時代、よく恩師に呼び出されて、二人きりで話し合いました。
彼は私に本音をいろいろ語ってくれましたが、いつも口癖だったのは
「本当に伝えたかったら、コミュニケーションは1対1。
 がんばっての1対2が限界やで」でした。

私が広告会社に入ってコピーライターになったとき、
私の師匠となったクリエーティブディレクターは、
「コピーは手紙だ」と言っていました。

手紙は特定の具体的な誰かに送るもので、
文語としての「1対1」のコミュニケーションです。

私も長年、本気の思いは必ず相手に伝わると信じて生きてきましたが、
その基本は「1対1」です。

それ以上の相手に対してコミュニケーションするというのは、
どうしても様々な力学に翻弄されることになるし、
アウトプットがある場合には、そこに気持ちが乗っているのだということを
発信側から伝えるのはなかなか難しい。

アウトプットが一人歩きする場合は尚更です。

そういうとき、最近私は思うんですね。
コミュニケーション不全の責任の半分は、受けて側にあるのでは?と。

だって、コミュニケーションって、発信側と受けて側の両方がいて、
初めて成立するものですから。

受け手が、アウトプットの裏側に何があるのか、
ということを想像する力がないと、
物事の全体像を把握することはできないんですね。

「聞く力」です。これは、「感じ取る力」でもあります。

もちろん、伝えるというミッションを背負っているのだから、
すべては発信側の責任だ!というシビアな視点も
ビジネスには必要なのかも知れません。

でも、本当にそうでしょうかね。
ビジネスって、そんなにつまらないものでいいのでしょうか。

人間同士がやっていることなのに、
情やぬくもりがなくていいのでしょうか。
プロセスはどうでもいいのでしょうか。

こういうことを言うと、すぐに弱いやつとか、
ビジネスで成功できない、とか、指摘してくる人がいるのでしょうが、
では、聞きたいのです。

人間にとってビジネスっていちばん大切なことでしょうか?

経済ってそんなに大事ですか?
そんな妄想を命と同じくらい大事だと錯覚している世の中が、
人を生きにくくしているのではないですか?

そういうことが生んだ世間の殺伐さに、
みんな心が悲鳴をあげているんじゃないですか?

ビジネスって、本当に人間を幸せにしているんでしょうかね?
ビジネスチャンスより大事な、幸せを感じるチャンスを、
むざむざ捨ててしまっているのではないでしょうか。

私はそのように、今の社会をみています。

多くの人が誤解しているようですが、
幸せというのは、獲得する「もの」ではありません。
手に入れることもできない。
なぜなら、幸せとは、「状態」を指すからです。

何が幸せなのか、は、人の心が決めます。
あなたが「今」の中に幸せの要素をみつけ、そこに尊さを感じたなら、
それが「幸せ」です。

多くの人が、幸せを、「嬉しさ」と勘違いしているように思います。
まぁ、似ていますからね。得られる感情やタイミングも。
でも、「嬉しさ」は何かを獲得したときに湧き上がる感情で、
「幸せ」はあくまでも状態です。
何かを獲得したから幸せになるのではない。

誰かと一緒にときを過ごす、とか、
風の流れを感じる、とか、金木犀の香りがする、とか、
そういう状態に対して、それを尊いと思う時、
「幸せ」になるわけですよね。

つまり幸せは他者がくれるものではなく、自分の心で解釈して、
自分で作り出すものだ、ということです。

では、ビジネスは、人を幸せにする要素で満たされているでしょうか?
今のビジネスは、とくに人と人が協働で何かを生み出すということより、
合理的に利益を出すことに意識を集中し、
それに失敗することが許されないという、殺伐としたものになっています。

リモート会議では、必要な会話が終わったら終了。無駄話は一切なし。
それが心地いいと思っているのかも知れないけれど、
だとしたら、その根本がすでに壊れているからですね。

働き方改革なんていいますが、
仕事の時間が短ければ短いほどいい、というのは、
それだけ仕事が「嫌なもの」になったからですね。

気の合う仲間たちと、楽しくて仕方ない仕事なら、
そうやって過ごしていることそのものに幸せを感じるはずです。

ビジネスは人の心の要素を削ぎ落としてしまったから、
やり過ぎると自死したりする悪しきものになってしまったのでしょう。

思いやりやぬくもりがなくなったからです。

コロナでリモートになったことが、
これからの若者たちの心にどんな影響を及ぼすか、とても心配しています。
人間はロボットにはなれないし、
心や脳の進化はデジタルの進歩の速さに圧倒的に負けています。

カタチばかりの思いやりではなく、本当に人間を思ったならば、
今の社会の様々な事柄は根底から間違っていると指摘せざるを得ない。

しかし、そうとわかっても、
なぜかそれを推し進めてしまうのもまた、人間なのですよね。

その矛盾は、恐らく人類滅亡の日まで、解決されないのでしょう。
だから、それを良しとせず、諦めず、抗いつづける必要もあるのです。

社会全体が「聞く力」「感じ取る力」の重要性に気づいて、
その醸成に力を入れなければ、
互いが互いをわからないことが原因となって、
社会は内部から崩壊していくでしょう。

日本社会の危機の本質は、そこにあるような気がしています。

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