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気候危機の本質は、世代間ギャップである。

気候危機というのは、少し前まで気候変動と言われていたもので、
それは要するに地球温暖化の問題ですね。

世の中にはいまだに地球温暖化懐疑論の人はいて、
そういう人の意見に耳を傾けると
だいたいの内容は「科学っぽい」けど「科学的」ではなく、
正常性バイアスに支配されている意見が多いと感じています。

例えば、で話しますね。

ここに一枚のデジタル画像があるとします。
いま、見えているのは夕陽に照らされた赤い山の稜線だとします。

では、この画像をどんどん拡大していきましょう。
赤い山に見えていた画像も、
それを構成するひとつひとつのドットが見えるサイズまで拡大すると、
赤系の色だけでなく、紫や青なども混ざっていることに気づくはずです。

また、スムーズなように見えた稜線のラインも、
実はガタガタしていることに気付きますね。

地球温暖化というのは、何千年、何万年という長い時間を
俯瞰したような視野から、ここ200年あまりの気温の差と、
そこで排出された二酸化炭素の量を検証しています。

その画像のドットのひとつひとつは、我々が暮らす1日1日です。
あるいは1年1年という単位でもいいでしょう。
私たちが日々の体感で感じられるのは、この1日1日や1年1年です。
そのサイズの近視眼的な視座からは、
地球が温暖化している、とは思えない日や年もあるでしょう。

寒い日も、快適な日もあるからです。

しかし今、我々は、そのドットの中のひとつにいながら、
この絵の全体像を俯瞰することを要請されています。
それは我々の直感的な感覚では理解しにくいこともあり、
感覚と科学のギャップを理性で超越しなければならないのですね。

それが難しい人がいる、ということが、ひとつあるのだと感じています。



地球温暖化に関する私の意見は、国際的な意見と同じものです。

「地球温暖化は起きており、その理由は人間の活動である。」
というものですね。

日本には今でも、地球温暖化が起きているかどうか、
起きているとしたらその理由は人間の活動なのかどうか、
その点において科学的に諸説ある、と思っている人が結構います。

しかし、これは「諸説ない」と断言できるでしょう。

世界中の気候学者が
人の活動を原因とする地球温暖化が起きていることを認めています。
懐疑論を展開する学者や大学教授、シンタンクの人間もいますが、
それらの中には誰一人として「気候の専門家」はいないのです。
(自称、はわかりませんが・・・)

まぁ、その話はさておき、温暖化懐疑論を振りかざす人の特徴を見ると、
あまり若者がいないということが言えると思います。

「意見の内容というものには、世代の傾向がある。」

これが、今回、声を大にして言いたいことなのです。
我々は、生まれ育っていく過程の中で様々な教育を受けます。
しかし、多くの人にとって教育を受ける期間は限定されていますね。

そのとき、最新の情報が教育によって植え付けられるとしましょう。
しかし、ときの流れの中で「最新情報」というのは更新されつづけます。
中には最新の知識をずっと更新続ける人もいますが、
多くの人は初めてその情報を知った時のまま、
内容を更新せずに持論を展開しますね。

情報を提供するのは教育だけではありません。
ワイドショーなどのメディアの情報も大きな比重を占めます。
そのときそのときの事件性ということも関わります。

人は事件には関心を持ちますが、その後の情報には無頓着なことも多い。


例えば福島原発の放射線の影響について、
皆さんは東北地方の汚染が広がった地図を見たことがあるでしょう。
テレビでもいっぱい放送されましたからね。
あのとき、風は海側から内陸に向けて吹き、その後南下したので、
放射性物質が広範囲に広がりました。

その地図は、おそらく 2011年か2012年ごろのものではないでしょうか?
そのあと10年が経って、

今の汚染の状況はどうなっているかを確認した人は少ないでしょう。
メディアも取り上げません。

しかし、例えば放射性物質には半減期というのがあって、
時間の流れと共にどんどん無害に近づいていきます。
半減期という言葉がなぜあるか、と言えば、物理的な量が半分に減ると、
その影響はずっと小さくなるからなんですね。

ちなみにヨウ素131の半減期は8日、セシウム134の半減期は2年、
セシウム137の半減期は30年です。

あれからもう10年が経ったわけですから、状況が変化しているのが当たり前ですが、
あなたの頭の中の福島像は、事故後から変化しているでしょうか?



つまり言いたいのは、ふつう、人の知識というものは、
特別な努力を続けない限り、

みんな何年も前の知識で止まっているということです。

そして、全人類が同じ知識のままで止まっていれば
「常識」という意味では問題がないかもしれませんが、
その人が生まれた時代によって、その内容がそれぞれにちがっていて、
別の物差し(常識)を持った様々な人が、
ひとつの大きな箱の中に同居しているのが、
この「社会」というものなわけです。

地球温暖化懐疑論に世代傾向があるかを

統計的に見たデータがあるわけではありません。
あくまでも私の肌感覚ですが、
私の周りにいる人の中で、温暖化懐疑論の若者には、
まだ会ったことがない、ということです。

それはなぜなのか?と言えば、
やはり今の若者は、今の情報に接しているからでしょう。
もちろん、今のシニアの皆さんも情報には接しています。
けれども、いちど頭に「正解」として刷り込まれた
過去の情報を更新するのは、誰にとってもなかなか難しいことなのです。

もちろん、私にとってもです。


今でも温暖化に懐疑的な人は、恐らく何年も前に展開された議論が

今でも頭の中にあるのではないでしょうか?


しかし、科学技術は年々進歩するし、
以前は遥か先のことと思われた2030年も、
今やすぐそこまで迫っています。



1970年代には「予想」にすぎなかったこと、わからなかったことが、

2021年の今ではどんどん「確実なこと」として解明されています。


1990年代以降に展開された温暖化懐疑論は、

石油業界が流したプロパガンダであったことが今ではハッキリしています。


そのおかげで温暖化対策は30年遅れてしまったと言われています。


そういう「今は解明されていること」をしっかり把握しなければ、

本当に起きていることを知ることはできません。


そのとき重要なのは、自分の固定観念、「思い込み」を打破する力です。


思い込みは、そもそも見つけることが大変です。

なにしろ「思い込んでいる」わけですからね。

だから、自分が正しいと思っていることを、
「必ずしもそうではないかもしれない」と常に意識すること、

クリティカル・シンキングが要求されるわけですが、

これは年齢が高い世代の人ほど難しいです。



もちろん年齢的な柔軟性の問題もあるでしょうし、

経済的に繁栄してきたという時代背景も
大きく影響しているのだと思います。



※



世界では「気候正義」(Climate Justice)というものが叫ばれています。
現代の気候危機を発生させたCO2を排出してきたのは先進国であり、
その被害の犠牲となるのは途上国である、という不正義を示す言葉です。

最近そこに、世代間の気候正義という概念も出てきました。

我々が日本において日々の暮らしの中で意識しなければならないのは、
むしろこちらの気候正義ではないでしょうか。

世代間の気候正義とは、
今の気候危機を招いたCO2を多く排出してきたのは年齢の高い世代であり、
彼らの行動の犠牲になるのが若者であったり、
これから生まれてくる次の世代である、という考え方です。

これは、現実を「時系列」という別の角度から見つめたものであって、
厳然たる事実です。

例えば、朝、子供たちを幼稚園のバスに見送ったお母さんたちが、
しばらくそこで立ち話しているという光景を私もよく目にします。

気候正義の観点から見ると、
バスに乗って手を振る子供たちの世代は、

それを笑顔で見送るお母さんたち世代の行動の犠牲者になります。



お母さんたちは、愛する我が子のために、自分の行動を変えられるか?
それが問われているときに、この何気ない日常の光景を、

行動とその犠牲者という観点で見ることができるでしょうか?


もちろんお母さんたちはまだ若いですから、

その祖父や祖母の世代からみたら、彼女たちもその上の世代の犠牲者です。



そんなこと、あるわけない、と思いますか?
その正常性バイアスこそが、
気候危機への対策を遅らせる原因のひとつなのです。


未来世代のことを自分ごととして、本気で考えることができない。

そこに今日も当たり前のように動く経済社会が絡み、

その経済の影響も世代によって異なっている。



こうして考えていくと、地球温暖化や気候危機の問題というのは、
「巨大な世代間ギャップの問題」であることが見えてきます。

今までCO2をたくさん排出してきたけれども、
その影響をあまり受けずにこの世をさっていく世代と、
CO2を自分で排出したわけでもないのに、
これからその悪影響をすべて背負わなければならない世代との
世代間ギャップです。

そのような見方ができるかできないかで、
例えばグレタ・トゥーンベリさんの行動の見え方がちがってきます。

世界中の多くの若者たちが彼女の行動に賛同する中で、
トランプ前大統領は「子供は学校に帰れ」と言いました。
これが「世代間ギャップ」の象徴です。



社会の常識というものは、
あるひとつの形をもっていると思い込まれていますが、
じつは世代ごとにちがっていて、この世には無数の「常識」があります。

その常識をぐるぐるかき回して、混ぜ合わせていかないと、
世代ごとの常識が更新されるということはありません。

Z世代の常識とて今の最新ではあるものの、
30年後には古い考えになっています。
つねに世代を超えて人々が交流し、
若い世代の常識をミックスして行かないことには、
未来に対する正しい行動は取れないということです。

いま、SDGsとか、脱炭素とか、
様々な社会課題に向けての行動が叫ばれています。
しかし、この日本の中では、なぜかなかなか動きが見えてきません。

それは、この国からコミュニティが失われ、
様々な年齢やバックグラウンドを持った人々が
交流する場がなくなったことが大きい。
もちろん、その傾向は世界中で起きていますが、
日本では特に顕著のように思われるんですね。

バブル期と、その崩壊を経験した世代の日本人は、
自分が生き延びるのに精一杯で、他人のことは知ったことか、という
メンタリティを根底に植え付けられたように思います。

世代論で言えば、それはちょうどロスジェネまでがそうでしょう。

そのあとの世代たちは、いま、確実に社会を変えようと動き出しています。
「人新生の資本論」を描いた斎藤幸平さんなどは、
まちがいなくその一人でしょう。

問題は、それより上の世代が、常識を更新しようとしないことです。

繰り返しますが、気候危機の問題は、世代間ギャップの問題でもあり、
世代間ギャップを解消する方法は、
世代を超えて人々が相互理解をする機会をつくるしかない。

私はそう思っています。

いま、超高齢化社会を迎えた日本は、同時に少子化社会でもあります。
人生100年時代を迎え、人の寿命は伸びました。
高齢者は体が弱るので、一般的には弱者と思われやすいし、
実際にそういう部分もあります。

しかし、ひとりひとりの個体がとてつもなく長く生き、
しかも気候が崩壊していくこれからの社会の中で、
世代論的な弱者は圧倒的に若者なのです。
物理的に数が少ない日本では、なおさらでしょう。

彼らの声は社会に届きにくいのです。

世代間ギャップとはどのような現象であるのか。
その解消のために必要なのは、どのような行動なのか。
そういうことを考えるべきなのは、人生の先輩世代なのです。

我々には、責任があるということです。

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