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「社会」とか「世界」と聞くとうんざりする

ふと思った。最近自分はよく言葉にうんざりする、と。「多様な価値観を受け入れる」とか、「様々な価値観」だとか。そんなのは存在して当然のものであってわざわざ言葉にするほどのものではなかろう、と。これは少し過激な物言いかもしれないが、とりわけ僕が最近耳にしてうんざりする、反論する気も、自分の考えも主張する気も消え失せる程にうんざりしてしまう言葉が二つある。「社会」と「世界」という言葉だ。
何を、と思うかもしれないが少し冷静になると思いつく疑問がある。

「社会」「世界」ってどこからどこまでなのだろう。

ふとそんなことを疑問に思うし、自分なりに色々経験したからこんなことを言えるのだろうが、世間一般に広まっている「社会」の定義であったりよく人が言う「世界」の定義は僕にとっては大きすぎる、背負いきれないものだ。そんな二つの言葉に関して、書き記しておく。

「社会」

「社会」の定義をまじまじと捉え始めたのは今から1年以上前、2021年のクリスマスくらいだった気がする。東京駅丸の内広場である人がこう言った。
「突然なんですけど、社会の定義って分かりますか?」と。
僕は「んー考えたことが無いです」
と答えた。
彼は「社会っていうのは自分以外の世界のことです」
そう回答した。
僕は「なるほどー」と。
この「なるほどー」は当時の自分でも薄々感じていたが、心の底から同意できないときに口にする「なるほどー」だった。というのも、当時あまりに考えたことのない話題が突然降って出てきてせいで彼に対する反論や自分の意見も十分に用意することが出来ない、その場しのぎの「なるほどー」だった。
この会話を彼の定義する「社会」に最も影響を与えそうな企業群が集う丸の内でしている、ということがなんとも奇妙だった。丸の内は高層ビルに囲まれた場所であり、人々が行きかう場所である。そこで彼は、社会の定義について伝えた。それに加え、彼の定義によれば、そこを行きかう人々も「社会」だ。彼の「社会の定義って分かりますか?」という言葉が私の中で何度も響くと同時に、不思議な問いが広がっていった。

「社会はじぶんにとって社会なのだろうか?」

社会が自分以外の世界であることは間違いはなさそうだ。しかし、あまりにも自分以外の世界というと広くなかろうか?つまり「じぶんにとっての社会」とは一体何なのだろう?それまで何気なく生活してきた中で、この問いに向き合ったことがなかった自覚が私に芽生えた。丸の内に集う企業群の存在も、その疑問を強く刺激した。彼らが「社会」にどのような影響を与えているのか、そして私たちは「社会」にどのように関与しているのか。そしてその「社会」は当時具現化することの出来ていない「じぶんにとっての社会」に影響を与えるのだろうか?「社会」が「じぶんにとっての社会」に影響を与えるのであれば「じぶんにとっての社会」が「社会」に影響を与えることがあるのか。その時の私にはまだ答えが見えなかった。何となく、彼の定義する「社会」が自分の定義する「社会(=じぶんにとっての社会)」とは合致しない事だけは確かそうだ。そして、興味深い問いが建てられたことだけは確かだった。「社会」の定義を追求し、その本質に触れることで、私は自分と他者との間での立ち位置や役割、距離を見つけ出せるのかもしれない。このクリスマスの出来事が、このnoteを書く出発点となった。

俺もお前も殺人鬼

「社会」=自分以外の世界
というこの図式が自分の中で決定的に崩れた瞬間があった。2022年8月、友人が他界した。といっても事故でも交通事故でもない。自らで自らの命に終止符を打った。
友人の死の話を本人のいないところで事細かく詳細に話すのは気が引けるし、するべきではないと思うので、ここでは単にそういう死に方をしたくらいの認識で話を進めていく。

僕は彼の死を死後3週間くらいが経過したタイミングで聞いたのだが、ひどくショックを受けた。夜も眠れないくらい、不眠になるくらいショックを受けたし、なんだか日常生活を送っていても身が入らないというか文字通り「うわの空」状態だった気がする。人と話をするだけでもひどく疲れるし、可能であれば日常生活を一時中断して部屋で一人で寝込みたい気分だった。けど、「世界」は、「社会」は彼という一人の人間がまるで最初からいなかったかのように進み続けていることに違和感を覚えた。それは当時僕がアメリカで留学をしていて、その物理的距離によって影響がないとかそういったわけではなく、同じ日本に居る人々でも彼の死をしっているのは至って少数派のはずで、今このノートで初めて知った人や、知らないまま命を終えていく人の方が圧倒的大多数のはずだ。

そうやって思想にふけっているうちに東京駅で知人が話した「社会っていうのは自分以外の世界のことです」という台詞に対して違和感が湧きつつあった。少し意地悪な考えかもしれないが、言い換えると「自分以外の世界に何があっても自分には関係ない」とかそういったニュアンスの言い換えに聞こえた。「いや!そんなことはない!両親や親友、パートナーがいなくなったらひどく悲しむはずだ!」という声も聞こえてきそうだ。そして実際にそういう声をたくさん聞いた。だとすれば、自分と「社会」「世界」という二元論的な区切り方ではなく自分と「大切な世界・社会」「どうでもいい社会・世界」という3つに括られるのではないか、と思うようになった。少なくとも、二元論ではないだろう。僕の友人の死をそもそも東京駅で出会った知人は知らないし、知らないから悲しんでもいない。自分以外の世界といいながら。(自分以外の世界はどうでもいいと最初から思っているのであれば話は別だが、きっとそうではないだろう)

「世界」

前節で現れた問いの回答になりそうな部分を見つけたのは2023年春の京都だった。友人たちとしゃぶしゃぶに行き、解散した帰り道でふと「なんか最近社会とか世界を変えるって自分にそんなことはできるんだろうかってしっくりハマっていなくて」という話をしていた。

当時は2時間睡眠で下道で京都に行き、その日の夜9時過ぎだったので意識がもうろうとしていた中での回答だったが自分はこう答えた。
「僕はぶっちゃけ手の届く範囲の人だけが自分にとっての世界の全てですね。仲のいい友人とかパートナーとか。その人たちが幸せならそれでいいかな~って。正直、その辺の道端歩いている人とか、一回あっただけの人とかはどうでもいいです。」
と。続けて、
「その状態を作ることが出来たら、例えば、パートナーがいるとしてパートナーを幸せにすることが出来たら、その次は親しい友人とか。それもできたら友人の幅を広めていくとか、小さい所からスケールしていけばいいんじゃないですかねぇ?」
と。

疲れている中での適当な発言であったが、我ながら良い回答だったと思う笑。
言葉にしたことはこれが初めてだったが、無意識ながら実際そうだと思う。

ここから先は語ろうと思えばいくらでも話せる気がするけど、このくらいで今回は締めたい。

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