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【エッセイ】明日は何を食べようか

 死にたい気持ちになる時は、決まって腹が減っている。

 希死念慮を抱えている。とは言え、そう致命的なものではない。ただ漠然と死を望んで、しかしその不可逆性から踏み切れずに漫然と生き延びている、その程度のものだ。こんな些細な死にたさなんて、誰しも少なからず抱えているんじゃなかろうか。「そんなことないから、わざわざ「希死念慮」って名前があるんだろ」と言われて初めて、みんなは死にたくないことを知った。
 鬱病真っ只中の頃は駅のホームから飛ぼうとしたこともあったが、今はそんなに積極的ではない。高倉に向かって暴走トラックが突っ込んできたり、鉄柱が落下してきたら良いのになぁ、と、クリスマスの空にサンタクロースを探す子供のように願って過ごしている。たまに、早く、早く、早くと切実になって、八階にある自室のベランダから地面を見下ろす。
 そういう時に限って腹が減っているのだと、最近ようやく気がついた。

 人間の三大欲求は、食欲、性欲、睡眠欲でできているらしい。高倉は満たされないと困る性欲を持ち合わせていないので、食欲と睡眠欲が欲の右大臣左大臣を張っていることになる。
 神経科学によると、情動とは種ができるだけ確実に生き残る為の機構であり、欲とはそれに関連する快情動、不快情動であるらしい。欲が満たされない状態が不快情動、よく満たされた状態が快情動。人に限らず動物は、生き残るために、繁殖し続けるために、不快情動を遠ざけ快情動を得ようとする。きっと人が猿だった頃から、そういうふうに作られている。
 残念なことに高倉は思慮する葦で、猿のようにシンプルには生きられない。高倉が繁殖のために奔走せずとも、世界には八十億の同胞がいる。高倉があくせく生き延びようとしたところで、人の寿命は知れている。機構は形骸化し、複雑化した思慮によって快情動、不快情動の形も変わってゆく。

 名作少年漫画「銀魂」に、こんな台詞がある。

 人は死が遠い場所では理想だ信念だ小難しい理屈を並べて生きているが、死の淵に立って初めて気づく
 人間は本当は、ただ心許せる者の側で生きたい、死にたい、たったそれだけの単純明快な生き物なんだとな

漫画「銀魂」より

 例えば高倉の人生が今終わるとしたら、それはそれで幸せなことなのかも知れない。高倉が心を許した人はまだこの世にいる。そばで生きて死ねたら、こんなに良いことはない。
 これが、この幸福がいつ終わるとも分からないのが怖い。不快情動だ。この幸福を失って、二度と取り戻すことができないまま終わることこそ怖い。ならばいっそ、今、今、と快情動に縋り付く、この衝動が高倉の希死念慮だ。猿はこんなことを恐れないのだろう。猿を生かした機構が、高倉に死を勧めている。

 不健全な思想だ。全くよろしくない。
 そもそも「この幸福がいつ終わるとも分からない」なんてことを思慮するのが愚かしいのだ。この世に終わらないものなどない。終わる日を憂うくらいなら、終わるまで存分に噛み締めて大事にしてやるのが礼儀だろう。消しゴムは最後の一欠片が消しカスになるまで使い、ガムは味がなくなるまで噛め。
 そう思えず死に縋るのは、そう思う体力が尽きているからだ。ちびた消しゴムを無くさないように気を配るにも、ガムを噛み続けるにも体力が要る。力が尽きかけているから、全てを投げ出したくなるのだ。
 つまり、栄養があって美味しいものを腹一杯食べれば解決する。
 本来なら希死念慮より先に食欲が立つべきなのだろうが、情動がバグっているのだろうか。思慮によってバグった情動に、気付くのもまた思慮である。

 そんなわけで、帰路のバスにいる高倉は物欲しそうな目で並走する大型トラックを見つめているが、これはバスが突っ込んでくるのを期待しているわけではない。腹が減っているのだ。死ぬほどの空腹ではないが、空腹で死にたくなっているだけだ。
 さて、帰ったら何を食べよう。今朝仕掛けたごはんが、帰るころには炊けている。冷蔵庫には卵と、四人前のカレーを作る為の野菜セットと、適当にぶち込めば鍋が作れそうな材料たちがある。冷凍庫には美味しい餃子も眠っている。……何だかいつもいつも代わり映えしないメニューだ。一人暮らしだというのに、料理のレパートリーが一向に増えない。
 先日職場の近所で買った弁当は美味しかった。人に美味しいと思ってもらう為に作られた料理は美味しい。高倉も、高倉が美味しいと思う料理を作った方が良い。そうやっておなか一杯になれば、明日は何を食べようかと考え始めるだろう。そうなれたらいい。

 希死念慮は消えない。高倉はいつも、心の隅でちょっとだけ死にたい。
 それでも今夜は、炊き立てご飯と坦々ゴマ鍋でおなかがはち切れそうなので、地面の遠さよりも夜景の美しさに見入り、ビルの向こうから昇る朝日を待てる。

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