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【読書記録】撃鉄を起こして、ばん

 世界は愚劣で、人生は生きるに値しない。

近藤康太郎「三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾」より

 朝日新聞記者、近藤康太郎氏の著書「三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾」からの抜粋である。
 良著だった。以降高倉はこれをバイブルよろしく参照し続けるだろう。

 この本を手に取ったきっかけは単純、文章が上手くなりたかったからだ。
 noteで偶然見かけた、「最初の一行で殴りにくるようなエッセイじゃないと読む気がしないんだよな」という何処かの誰かの呟きが、高倉のエッセイに向けられた一言のような気がしてならなかった。被害妄想であろうがなかろうが関係ない。「ハァ?高倉の文章は最初から最後までフルボッコおもしろですが?」と思えなかった時点で負けている。
 人を殴る文章。衝撃的な初手。次が読みたくなる導入。そんなの書きたいに決まっている。書けたらとっくに書いている。しかし言葉で人を殴るにはそれ相当の知恵と技術とユーモアが必要で、高倉には何も足りていない。そんなことは分かっている。
 いじけていても仕方がないので、参考書を探した。大抵の悩み事は往々にして本が解決してくれる。仕事で行き詰まったら自己啓発本、人生に行き詰まったら超訳ニーチェ、一行で殴りたかったら三行で撃つ本に頼るに限る。

 著者、近藤康太郎氏は朝日新聞の名文記者であるらしい。肩書きを見ると「朝日新聞編集委員・日田支局長」の隣に「百姓、猟師」と記されている。著書には「アロハで猟師、はじめました」があるらしい。成る程、変な人かもしれない。
 書いてあることは打ちのめされるくらい的確で真っ当。しかし随所からユーモアが滲み出ていて、読み進める手が止まらない。上手い文章とは何か、すべる文章とは何か、何をするべきで、何を禁じるべきか。考え方を示した上で、あとは自分で考えろ、と突き放してくれる辺りが優しい。まさに文章「塾」だ。

 最終章で、近藤康太郎氏は「なぜ書くのか」を述べている。仕事だからだよ、なんて悲しい理由でも、書きたいから書くんだよ、なんて根性論でもなくてよかった。

「おもしろきこともなき世をおもしろく」などという歌があるが、そもそも「おもしろきこともなき世」が常態なのだ。だから、人類は発見する必要があった。歌や、踊りや、ものがたりが、<表現>が、この世に耐えたことは人類創世期以来、一度もない。

近藤康太郎「三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾」より

 曰く、文章を書くということは、思考を自分から切り離す作業であるらしい。切り離した自分を、眺める。感情を受け入れる。運命を甘受する。救いのない世界、愚劣で生きるに値しない世界で、自分を救済できるのは自分だけなのだと言う。

 高倉のnote毎日投稿は109日目に突入した。どうして毎日毎日文章を書いているのだろう。読み返すのも恥ずかしい、愚にもつかない文章ばかりだ。ありふれていて退屈。誰を仰け反らせることもない。捻っても捻っても「転」に値する展開が書けない。陳腐が過ぎる。
 それでも、書く為にアンテナを張ることを覚えた。これは結構得難い。
 いつもスマホゲームかSNSに落としてばかりだった目を、上げる。バスの車内を見渡す。簡素な自室を見る。ラジオに耳を澄ませる。紅葉しない街路樹に気付く。おじさんの草臥れた足取りを見る。箪笥の肥やしにしているワンピースを手に取る。鈴虫の声が聞こえる。空が高い。空気が冷たい。高倉にとって文章を書くとは、顔を上げることかもしれない。
 顔を上げて見つけたものに、計り知れない価値を見ている。しかし黙って大事に抱えているだけでは、誰も価値を認めない。

 価値を証明するには書かなければならない。角度のない文章に起こす程度では、高倉が見ている価値に見合わない。もっと威力のある言葉で。人を撃つ文章で。そうして綴った高倉の文章はいつか、俯いていた過去の高倉をきっと救う。高倉を救うことが、他の誰かを救い得ると信じている。

 だから、書く。全員顔を上げろ、と叫ぶのだ。そうして目が合ったあなたに、照準を定める。

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