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村上春樹の「SNSのまずい文章は読まない」の意味は?~作家とライターの違い

公開するのを忘れて放置していたけど、せっかく書いたから世に出そうと思ってじゃっかん遅ればせながらなネタ。

村上春樹がユニクロのWeb媒体、LifeWear magazineでのインタビューで、自身がSNSを見ないことについて、「大体において文章があまり上等じゃないですよね」と語ったことが、話題になったそうだ。

肝心の内容はこちら。

Q15. SNSはいっさい見ないそうですが、その理由は?

大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない。
LifeWear magazine

聴く人によれば「なるほど」と思う人もいれば、「そこまで言わんでも…」と思う人もいるかもしれないが、それについて色んな人が色んなことを語っていらっしゃる。

まずはじめに言っておくが、私は村上春樹を読まない。

一度、エッセイ本を読んだことがあるが、どうにも合わない。

同じ村上なら村上龍の作品の方が私には刺激があって何冊か読んでいるが、村上春樹の小説を読もうと思ったこともない。

そんな私だが、別に村上春樹が嫌いというわけでもなく、適度に距離を置いた心境で見られる存在の作家、というくらいのものだ。

だから、この件の氏のコメントは「なるほどな」という風に感じたし、氏の発言からデジタルネイティブまで大胆にも飛躍した御田寺圭氏の発想にも、うなずけるものがある。

ただSNSでの反応を見ると、どうも、「作家」というものを誤解しているのかな?と感じたりもする。

「作家」と「ライター」の違い

そもそも、作家と呼ばれる職業は非常にたくさんあって、なおかつ定義も曖昧だから、誰でも即名乗れるのが「作家」だ。

なにせわかりやすい。

私も本を出して、「作家」を名乗っている一人だが、じゃぁそれで食って行けているのかというと怪しいものの、とりあえず、「放送作家」とか「人形作家」とか具体的な対象を指定しない「作家」は、文章書いている人という一番わかりやすい表現だと思う。

よく、「ライター」と「作家」の違いは何? なんて意見もあるが、ライターは「職業」である。

それは、「DTPオペレーター」とか「CADデザイナー」とか「プログラマー」とか「バイオリニスト」などと同じく、専門職の名前である。

だから、作家が偉くてライターがダメとかそんなことはなく、完全に分類方法が違うだけだ。

同じ土俵で見るなら、「ライター」が文体問わず文章を「書く」仕事だとするならば、「小説を書く」ことを仕事とするのは「小説家」であるし、「エッセイ」を書くなら「エッセイスト」だ。

だから本来なら、

村上春樹は「小説家」「エッセイスト」と扱うべきだろう。

「作家」の定義

ただ、村上春樹を「作家」と呼ぶ理由もある。

なぜか?

作家は便宜上「文を書いている人」「本を出版している人」という認識で使われることが多いが、必ずしもそれだけではないからだと思うのは、私だけではないはず。

そもそも、作家は職業を示しているのではなく、

「新たな世界(観)を生み出すことが出来る人」のことであると思う。

こう言ってしまうと、ノンフィクション作家は作家じゃないのか、エッセイストは作家じゃないのかという声もあるかもしれないが、そういう次元の問題ではなく、ここではないどこかに、新たな世界が生み出すことができれば、それは「作家」と言えるのではないかと。

だから、『失楽園』を書くことで、不倫=失楽園というイメージを作った渡辺淳一は「作家」と言えるだろうし、「『失楽園』なんてしょぼくれたオッサンの不倫話じゃん」と言っている人が、文章で新たな世界を構築するのは不可能だろう。

この定義で行くと、マンガ家もアニメ監督も、みんな「作家」になれるじゃんと言えばその通りで、だからこそ、誰でも「作家」を名乗っていいわけにもなる。

だから、「放送作家」も「人形作家」もOKなのだ。

しかし、この定義だと、じゃぁ、なぜ、村上春樹のような小説家は「作家」と特別扱いされるのか?

という説明にはならない。

それには世間の抱く、「作家」に対するもう一つのイメージがあるからだ。

新海誠は「作家」か?

たとえば、人気のアニメ監督、新海誠氏は「作家」か?

と言われるとどうだろう?

「アニメ作家」であるし、小説も書いているので、人によっては「そうだ」と言うだろうし、「そうじゃない」と言う人もいるだろう。

「そうじゃない」という人は、何かしらそういうのは差し支えがあるな、と感じるから思うわけで、私もそちらの部類に入る。

新海誠は、当代きってのヒットアニメ監督だ。

一人で作成したことで有名になった『ほしのこえ』から、今や巨額の売上を期待できるヒットメーカーになった。

しかし、村上春樹と同種かというと、「違う」と思う人も多いだろう。

理由は実にカンタンで、新海作品は「芸術」ではないからだ。

『世界一受けたい授業』で自身が説明していたが、観ている人たちの感情をどう持っていくかを感情曲線を使って設計しているように、明らかに、大衆を意識した作品作りをしている。

だから、子どもも楽しめる大ヒット娯楽映画、素晴らしいエンターテイメント作品に仕上がっている。

でもそれが、芸術的ではあるかもしれないけど、「芸術」かと言われると正直微妙な所だ、と思う人が少なくない、ということだ。

別にそれが悪いわけではない。

世の中には、創作で食っていけない人がごまんといるわけで、その中でも、数々のヒット作を生み出し、妻は女優、娘は『パプリカ』を歌うメンバー・・・なんて、成功者でしかない。

おそらく、新海誠は、『ほしのこえ』の作り方でずっと続けていけば、「作家」になっただろう。一人で10分以上の、ドラマのあるアニメ作品を作ること自体が、芸術創作だったからだ。

でも、それをしなかった。

別にそれが悪いわけじゃない。

でも、「作家」だったらきっと、一人で制作をし続けただろう。

そもそも、「作家」なんてものは、ヤクザになるみたいなものだといったのは五木寛之だが、「作家」だから成功しているわけではない。

むしろ、「作家」すぎて不幸な人生を送った人も多いし、世間に認められなかった作家も少なくない。宮沢賢治なんてのはその最たる例だろう

だから、「作家」として見られなくても、幸せに生きられるなら、そちらの方が人生の成功者とも言える。

じゃぁ、「作家」ってなんでそんな「成功者」と違う生き方をするのか?

これ違いが、「作家」とそうでない人の違いを生んでいる。

「作家」が大切にしていること

ここで「作家は生き方」であるという部分に戻ってくる。

『沈黙の春』『センス・オブ・ワンダー』で知られ、環境保護のムーブメントを創り出した、生物学者であり作家だったレイチェル・カーソンは、こんな言葉を遺している。

作家は、主題に対して謙虚でなければなりません。
読者や編集者の願望のままに作家が主題を勝手に型にはめこもうとしてはなりません。
作家の第一の仕事は、主題になじむこと、主題のあらゆる側面を理解すること、そして主題で頭をいっぱいにすることなどです。
そうしているうちに、ある転機が訪れ、主題が作者に指図をするようになり、それから真の創作が始まるのです。
作家としての訓練は、主題がなにを彼に語っているのか、冷静に耳を傾けることに習熟することです。
ポール・ブルックス『レイチェル・カーソン』

「作家」の仕事は、作品を生み出す事だ

今、目の前に見えないけれども、確かにそこにある物を、文章という手法を使って「形」にすることができるのが、作家なのだ。

だから、「こうすれば感動する」「こうすれば面白くなる」というエンタメ性を持ち込むことは完全に「作家」としての創作活動とは違う作り方ということになる。

実際には、他の人が何も感じなくても、そこに何か「ある」と感じるのが作家の感性だ。

それを、形にする時に、まったく違う体裁になってしまうことがあるにしろ、作家にはそれが確実に「見えて」いるし、見るためには、そのこと(カーソンの言う「主題」)に対して全精力を傾けて見なければならない。

だから、まったく新しいものを作る事が出来る。

つまり、「作家」とは、他の誰でもない、作品と向き合って、新たな世界を生み出す人のことを言うのだ

わかりやすくいえば、「本質」にしか興味がないのだ。

だからこそ、誰にでも出来ることではないし、「作家」の言うことに、得も言われぬ「説得力」が生まれるわけだ。

村上春樹はSNSを見ない

以上のことをまとめると、

いわば「作家」とは「作品」に仕える仕事だ

だからそこに、「芸術」という側面が生まれた作品が出来上がる。

売れない芸術家が「芸術」を作っているのも、まさにそこだ。

こう考えると、この感覚を持っている村上春樹という作家が、「SNSの文章はまずいものが多いから触れたくない」と言うのもわかっていただけるかと思う。

芸術作品を作るために必要なことは、「これが観客に受けるかも」とか「人気の俳優を使おう」とか、どんどん足していくことではない。

むしろ、「作家」の仕事は、

本質を残し、不要なものはどんどんそぎ落として洗練させていくことだ

その作品自体が「語る」ようなものを、この世に生み出す作業だ。

そして、「作家」という生き方をしている人間は、それをとても大事にしている。

極端な話、

自身の作品が売れようが売れまいが、そこが変わらないのが「作家」だ


なぜなら、「作品」ありきであって、誰かのために、何かのために書くわけではないからだ。

だから、村上春樹はSNSを見ない。

実際、SNSを利用してトランプ大統領が、本質を見ない国民をアジテーションする恐ろしさを見ているし(氏は英語の翻訳家でもあるのでリアルな文を読んでいたと思われる)、そういうのもよけい感じたことだろう。

人をおとしめる文、自分を大きく見せる文、そういうものは、本質とは遠く離れた、いわば「美味しくない文章」だ。

わかりやすくいえば、素材本来の味を楽しみたいのに、添加物たっぷりの調味料をドバドバかけたものを食べさせられている感じ。

「素材」を大切にする「作家」は、そのジャマになるようなものなら、遠ざける。

本質を見るのが作家であり、それはとても自然な行動なのだ。


だから、「作家」がSNSを見ないことをあーだこーだ言うのは、お門違いなんだよ、という話でした。

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