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不可知性を描く——マイリス・ベスリー『ベケット氏の最期の時間』(早川書房、2021年)を読んで

コルクの佐渡島さんが主催している文学サークルでマイリス・ベスリー『ベケット氏の最期の時間』を読んだ。

サミュエル・ベケットという文学者の名前は知っているものの、その作品を読んだことはない。前提知識が必要な作品だったらどうしようと思っていたが、思考を刺激してくれる作品だった。

おそらく、サミュエル・ベケットの作品を読んだことがあったり、彼の生涯についての知識があればまた別の読み方が可能なのだろうが、そのような知識なしにどのように読めるのか、解釈の一つの可能性を考えてみたい。

簡単に内容について書いておこう。

実在する文学者サミュエル・ベケットを主人公に、老人養護施設での最晩年を描いている。事実に基づきつつも、あくまで著者の創作である。起承転結のような明確なストーリーもない。要約がとても難しい。過去の記憶や様々な想念が脈絡なく描かれているという印象である。

さて、このように書くと、この本の何が面白いのか?という気もするが、内容ではなく形式に関する二つの問いから、この本が何を描いているのかを考えていこう。

一つ目の問いはこうだ。

著者はなぜ主人公サミュエル・ベケットの内面の独白だけでなく、老人養護施設の関係者(医師、看護師など)による彼に対する記述を描いたのか?

本書はベケットの内面の描写が中心だが、それが延々と続く形ではなく、医師や看護師など第三者による記述が挟まれる。たとえば、以下のような記述だ。

ベケット氏担当看護師の伝達事項
看護師ナジャ
ベケットさんは、スケジュールにとても厳格な患者さんです。夜に読み書きをされるので、遅くまで起きています。わたしの勤務時には、邪魔にならないように、いつも巡回の最期のほう、概ね九時四十五分から十時くらいに部屋に行くことにしていました。(16頁)

ある種の報告書のようなものだ。なぜこのような形式をとったのか? これが一つ目の問いである。

二つ目の問いはこうだ。

著者はなぜサミュエル・ベケットという実在の人物を主人公にして小説を描いたのか?

これは本書を読まなくても感じる疑問である。完全なノンフィクションでもフィクションでもない、その狭間にあるような形式を選択したのはなぜなのか。

私の考えでは、この二つの問いはリンクしている。さらに言えば、「死」をテーマにした必然性もそこから理解することが可能だ。それは「不可知性」という問題である。

一つ目の問いから考えていこう。

主人公の内面の描写に関していえば、施設での出来事やそれによって引き起こされた感情、さらに過去の記憶など、様々な想念が文学的に表現されている。もしかすると、そこに何かしらのテーマ性を読み取ることは可能なのかもしれないが、もっとも印象に残るのは、医師や看護師などの報告書的記述とのコントラスト、さらに言えばその「落差」だ。

医師や看護師などの記述から読み取れるのは、「運動機能などの低下も見られるが、自分で日常生活を送ることはできる。すこし気難しく、内向的であるが、それほど問題を抱えている人物ではない」という機械的で「表面的な」人物像である。一方、ベケットの内面の描写は、その無時間的な感覚や、さまざまな想念の絡まり合いによって、とても「奥行き」のあるものになっている。

この落差から感じることは何か。それは身近にいる人であったとしても、その内面を知ることはできないというある種の断絶である。行動や振る舞いなど、外から見えるものによって内面を「類推」することはできるかもしれない。しかし、内面を「知る」ことは難しい。というか原理的に不可能である。ベケットの内面の描写と、第三者による記述を読む読者は、そのような「不可知性」を突きつけられる。

この程度であれば特に驚くべき内容ではない。しかし、ここで二つ目の問いを考えてみよう。

著者はなぜ実在の人物を主人公として小説を描いたのか?

主人公の内面と第三者の報告書的記述を読むことで、読者は、周りにいた人々はベケットの内面を理解していなかったのだ、という感覚を抱く。つまり、その内面こそが「真実」であると感じるということだ。

しかし、本当にそうなのだろうか。この本に描かれているベケットの内面はあくまで著者の想像でしかない。つまり、この本で描かれるベケットの内面という真実らしさも虚構でしかない。ベケットの最晩年の内面など誰も知るよしもないのだから。

内容レベルだけではなく、この小説を描くというメタなレベルにおいても「不可知性」が顔を出すのである。

完全なフィクションで、架空の主人公であれば、著者によるその内面の描写は、真実として受け取ることが可能だ。主人公はそのように考えていなかったのではないか?という問いは基本的には生じえない(もちろん、登場人物の内面は著者に完全にコントロール可能なのかという問いを提起することは可能だが、ここではその問いはおいておく)。

しかし、ノンフィクションとフィクションの狭間という設定を選ぶことによって、人の内面の「不可知性」を二重に描くということが可能になっているのではないか。

この本を貫くものが「不可知性」なのだという仮説をもとにすると、なぜ「死」を描く必要があったのかも理解可能だ。

万人に共通する普遍的な経験は死である。しかし、その不可避の経験である死そのものを私たちは知ることができない。これこそ究極の「不可知性」ではないか。

『ベケット氏の最期の時間』は「不可知性」に貫かれた一冊なのだと私は感じる。


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