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三途の川はバリアフリーじゃなかった(後編)

2013年5月11日

食事量が増えた。
食事と言っても、鼻から入れる栄養剤だけど。
最初は、200mlずつ、それが400mlずつに増えた。

そして、栄養剤が流動食に変わった。

これは朝食。
昼食は味噌汁に、夕食はスープになる。

どれもこれも具はない。味も極度に薄い。
それでも、初めての流動食で、味噌汁を飲んだ時、「うめえー!」と、思わず僕は唸った。

9日に、きつい処置があった。
骨を固定するためのネジを8本、局所麻酔で打ち込むというものだった。

麻酔が切れると、痛みに耐えきれなくなってきた。
内服薬、座薬、どれを使っても痛みは収まらなかった。
ベッド柵をずっと握りしめることで、痛みを散らそうとした。

「今が一番苦しい時期。もうひと踏ん張りです。」

先生の一言は、僕の心の苦痛を少し取り除いてくれた。

まだ退院の目処は立っていない。
それでも、確実によくはなっている、と思う。

調子がよくなると、オープンスペースに行って、仕事ができた。
文章を書いたり、書類に目を通したり、プロジェクトの進捗を確認したり。

「垣内さんのリハビリには仕事が一番効くに違いない!」と、先生に言われた。

こうやって挑戦し続けるしかない。
今は、苦しい。今は、底にいる。
寝転がっているだけじゃ、事態は変わらない。

僕は、ただ這い上がるしかない。

2013年5月22日

入院して、1ヶ月が経った。
相変わらず、流動食しか食べられない毎日を送っていた。

伊坂幸太郎さんの小説で、ある言葉を読んだ。

アーネスト・シャクルトンという探検家の「楽観とは、真の精神的勇気だ」という言葉だ。

これ以上ないというくらい全てをやり尽くしたら、あとは楽観すること。後悔しないように考える一方で、楽観視することも同じくらい大切だ。

僕は、僕にできる全力を尽くしていた。少し、救われた。

2013年6月8日

いつもと同じ病室にいた。
いつもと同じように、朝7時に目が覚めた。
いつもと同じように、体重を測るために廊下へ出た。

いつもと違って、お風呂の予約をする必要がないから、いつもと違うことに、なんだか少しそわそわした。

いつもと同じように、貧血防止のドリンクを飲んだ。
いつもと同じように、朝ごはんを食べた。
いつもと同じように、先生が迎えに来た。

「コンコン」とドアをノックする音がして、いつもと同じように、「垣内さん、いらっしゃいますかー?」の声。

今日で最後かと思うと、少し寂しい気持ちになった。

そして、そんな僕にとっての「いつも」は終わった。

荷物を病棟から運び出し、駐車場に行くとなぜかスタッフがいた。

僕が入院していた病院に、クラッカーの使用について確認を取るなど、周到な準備を重ねたサプライズ作戦だったそうだ。

47日間の入院生活は、色々あったけど、ゆったりと流れた。
不毛な一日もあったし、いろんなことを思い、考える時間もあった。

今日まで生きてきた8,825日の内、この時間は1%にも満たないけど、これからの人生において、計り知れない価値のある時間だったと思う。

三途の川はバリアフリーじゃなかった

僕の入院の記録は、これで終わりだ。
今、病院にいた日々と比べると、24時間が走るように過ぎ去っていく。

退院直後は、体重も体力も驚くほど落ちた。
車いすに乗っているだけで疲れることもあった。

でも、それは病室のベッドで望んだ、僕の「いつものいつも」だ。

生死の境を乗り越えて、今、僕は「いつものいつも」を生きている。
そう思うと、熱いのも、疲れるのも、ほどほどに心地よかったりする。

呼吸が5分間、停止した。
でも、奇跡的に帰ってくることができたのは、三途の川がバリアフリーじゃなかったから、だと思う。

「まだ現世のバリアフリーもできてないのに、こっちが整っていると思うなよ!戻って仕事しろ!」と突き返され、僕は橋を渡れず、3日間の昏睡状態から覚めた。きっと。

そんな風に笑って話せるようになった。今は。

多くの人に支えられて、いつもの日々に戻ることができた。
また人前で話せるようになったし、また車いすに乗れるようになった。
おかげさまで、毎日元気にやっている。

今いる日本で、まだ見ぬ世界で、やるべきことはたくさんあって、僕が生きるべき理由は、やっぱりまだまだたくさんある。

三途の川のバリアフリー化は、まだまだずっと先のことだ。



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