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【雑記】亡き義父の想い出

歌人だった義父の短歌集が、実家で見つかった。
ずっと探していたものだ。
歌集の著者近影で、息子は初めておじいちゃんの顔を知る。
「へえ、ボクのおじいちゃんって、こんな人だったんだねえ」
としみじみ呟く。

私は義父の短歌を見ると、糸魚川のことを思い出す。

・海くらき果てより冬の牙かぎりなし涛は悲痛に息まざるなり

初めて見た北陸の冬の海は、まさにこんな感じだった。

・冬海の涛がみがきし翡翠一顆みどり熟れつつ掌を氷らしむ

父は翡翠を拾うのがとてもうまかったそうだ。
「緑色の石を探しちゃ駄目よ。白っぽい石を探さなくちゃ」
翡翠海岸で翡翠を探していた時に、妻がよく言っていた。

二十年以上前のこと。
東京に住んでいた私は、初めて妻の糸魚川の実家に挨拶に行った。
東京から北陸の新幹線に乗りながら、初めて会う先方の両親、特に父親に、どう挨拶しようかといろいろ考えた。
だれでも同じだと思うが、とにかく緊張した。
当時私は三十五歳、二十歳そこそこの若者が挨拶に行くわけではない。大人対大人として、きちんと挨拶しなければならない。非常識なことはないだろうか、服装は大丈夫だろうか、敬語はきちんと話せるだろうかなど、自分にできることは何度も何度も確認した。
なにしろ相手は元学校の先生で歌人だ。怒らせないようにしなければ。そのことだけを考えた。

糸魚川の実家に到着したら、義父と義母、そして義兄が待っていた。
一通りの挨拶を済ませ、妻との結婚を切り出そうと思ったとたん、義父が
「赤星さんは、相馬御風先生を知っとるかね?」
と訊ねてきた。
名前くらいは聞いたことがあったので「はい」と答えると、相馬御風についてや糸魚川について、いろいろと聞いてきた。
どれもこれも私の知らないことばかりで、「存じておりません」と答えるしかなかった。
私が知らないと言うたびに、義父は詳しく説明してくれた。そして別の質問をして、私が答えられない。義父が説明する。その繰り返しだった。
知っているのは相馬御風の名前くらいで、他は知らないことばかり。
あまりに私がものを知らないので、さすがに呆れられただろうと、上目遣いに義父の顔を見るが、気分を害した様子はない。それどころか上機嫌にさえ見える。
義父はひとしきり相馬御風と糸魚川の話をした後、「それでは食事に行くか」と近所の中華料理屋に連れて行ってくれた。
中華料理屋でも終始上機嫌だった義父は、ここでも私のまったく知らないことをいろいろと語ってくれた。
当然食事は喉を通らない。ときおり質問されるが、なにも答えられない。
(絶対に呆れてるだろうな)と思い始めたとき、
「娘をよろしくお願いします」
と義父が真面目な顔をして言った。

東京に帰って、妻に義父に呆れられていないか訊ねたところ、
「あれでいいのよ」と言う。
「おれ、なにも知らないから、やばかったんじゃないの?」
「知らなくて当り前よ。あんな地元に偏った話、だれも知らないわよ。父はああやって質問して、相手が知らないと、嬉しそうに説明を始めるの。元教師だからね」
「じゃあ、あれでよかったんだ」
「そうだよ。下手に知ってたら、自分が語れなくてすごくガッカリしたと思うよ。だから知らないって答えるのが、父の場合、正解なのよ」
「そうだったのか」
「お父さん、あなたのこと、すごく気に入ってたわよ」
と言われて、安堵の胸を撫で下ろしたことを思い出した。

後で聞いた話によると、相馬御風先生は義父の短歌の師匠だったそうだ。
翡翠海岸で翡翠の原石を見つけるのが上手だった義父。
義父に息子を見せてあげられなかったのが、唯一残念だ。


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