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父とのエピソード

父は人も動物も植物も昆虫も愛する。愛の深い人だ。

私と6歳離れた弟が成長期の頃、
父はひとり必死に働いて家族を養ってくれた。

30、40代で働きざかり。自分で建築の仕事(サッシ屋)を営んでおり、
私が中学生の頃は現場に行くので忙しく、顔を合わせない日が何日も続くこともあった。

私は反抗期ということもあり、タバコを吸ったり、酒に酔ってくどくど話したりする父のことが嫌いだった。すぐに怒る人で、私や弟もそうだが、特に母にきつく当たっていて、それを見たり聞いたりするのが辛かった。

何でそんな言い方をするのか、そんな怒らなくてもいいのに、
そんなきつく言わなくてもいいのに、ずっと心では思っていたけれど、言えなかった。言わさなかったのだ、と当時を振り返って母は言うが、私はずっと「言わない」を選択していたのだ。

私が中学3年生になり、高校受験はどうするか、というときに、和泉家に一通のハガキが舞い込んだ。

私はそれを見た時に、衝撃を受けた。
それはスイス公文学園という、簡単に言うとスイスにある日本の高校の紹介ハガキだった。

英語が小さい頃から好きで、小学生の頃はガーデニングに凝っていたこともあり、イギリス留学に憧れていた。なんとなくヨーロッパの雰囲気も好きで、英語を学ぶならイギリスだと思っていた。

「ここだぁ!!!」とハガキを見た瞬間思い、大興奮で母に伝えに行った。母は父に確認するように、と話した。

写真で見るスイスの田舎の村にある学校。山も自然も美しく、まさしくハイジの世界だった。ネイティブの先生が半数ほどおり、英語が存分に学べるとのことだった。日本の高校の卒業資格ももらえる。

現地では寮生活となり、毎食、食堂でごはんも出るという。生活も問題なさそう。学費は詳しくは書いてないけれど、入学金が1万円と書いてあるし、きっと大丈夫だろう、なんて浅く浅く考えていた。当時の私は、兎にも角にもスイスでの暮らしを想像してはわくわくにやにやしていた。

父が仕事から帰ってきて、いつ話そうか、とソワソワする私。
当時の私は、父に普通に話しかけることすら出来ず、顔色を伺い、機嫌が悪くないかを確かめ、タイミングを今か今かとはかっていたのだ。内心ビクビクの私。

父はお風呂に行った。
ふとハガキの入学金が目に入る。あれ?0が何か多くないか?
もう一度数えてみる。いち、じゅう、ひゃく、・・・え、10万?!1万円じゃなくて?!
えらいこっちゃ。まじか。これはダメだ。他の私立の学校でも入学金10万円なんて見たことない。とんでもない額だった。目の前が真っ暗になる、とはこういうことを言うのだろう。
さっきまで描いていた夢が音を立てて崩れていった。

そんな絶望する私に母が声をかける。母に説明する。
もうダメだ。こんな素敵な場所が見つかったのに。
県内の外国語科、英語科、大阪の私立の高校も見学に行ったけど、どこも今ひとつピンと来ず、まぁ受かったところに行くか、と思っている何とも張り合いのない高校選びの日々だったのに。もう泣きそうだった。

父がお風呂からあがってきて、暗い顔をする私を見てどうしたのかを聞く。母が説明する。
父は少し考えた後に、「行け」と言った。
は?と思って顔を上げる。
「行ってこい」と、父は私の目を見て静かに言った。

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後から聞くと、あの時一番びっくりしたのは母らしい。
まさか行かせると思わなかった、と話していた。

無事に受験にも合格し、私は晴れて高校生活3年間をスイスで過ごすことになった。

入学してからも、それはそれはいろんなことがあったけれど、
今でも「行かせてもらった」という気持ちは消えずに残っている。
もちろん良い意味で。

たいへんな額の入学金や学費を払わせてしまい、申し訳なかったと
社会人になってから父に伝えたことがある。
父は、大変じゃなかったと言えば噓になるが、行かせられた、ということが
自分の誇りになっていると言った。

私は3年間存分に英語を学べたことで満足し、
特に英語を使う仕事に就きたいと思っていなかった。

どうして、何のために英語を学びたかったのか、
をもう少し詰められていたら、違ったのかもしれないと思ったけれど、
後から考えても、「学びたかったから」しか出てこなかった。

今となっては、海外に出るのに不安がないとか、
世界規模で考えやすくなったとか、英語で書いてある説明書やパッケージも
なんとなく読めるとか、会話はそれ自体が苦手だったからあんまりだけど、
よかったなと思う場面はある。

就職活動の時に、そんな自分がどうしても父に申し訳なく、
だけどどうしても、英語を教えたいわけでもないし、
毎日英語でやりとりするような仕事に就きたいと思えないし
そんな力もないんだと話すと、自分が使わなくていい、自分の子どもに教えられたらいい、と言われて、安心したことを覚えている。

今度は自分にまだ子どもがいないので、どうしようというところだが笑、
それはまた別。今はほしいと思えないのでどうしようもない。
経験させてもらったことをとにかく感謝している。

不器用で、まっすぐにしか生きられなくて、
自分の母親ともいろいろあった過去をまだ癒せてなくて、
生きづらさを抱えながら、頭を打ちまくって、
とがった部分にだいぶ丸みを帯びてきた60歳前半の父。

80歳まで生きられるだろうか、なんて寂しいことは言わずにどうか長生きしてほしい。
そして生きがいとなっている畑のことや鶏のこと、ミツバチのことなど、いろんなことをたくさんの人に教えてほしい。

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