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自分には不要なコトバから見えてくるもの。

一日終わったら、自分で自分の頭を撫でて「今日もよくがんばったね」と、自分でほめてあげや。朝起きたら「おはよう。今日もいろいろあるけどゆっくりやれや」と言ってあげや。
これ、バカみたいやけど、むちゃくちゃ効くで。下手すると、涙出てくる。自分で自分のことをほめてあげて、パワーに変えていく。
それができてくると、今度はしんどいとか助けてほしいときに、家族や先生や友だちに「助けてくれ」「困ってる」と言えるようになる。

            玉木幸則


一月半ぶりに電車に乗ってきた。

ほんと電車に乗らなくなった。
会議がないから余計だ。

で、買い物があって池袋まで。
行って、東武・西武と2デパートで必要なものを買って、家を出て帰宅するまで一時間半。
いつものことだが、池袋での買い物は近所の商店街での買い物と気分的に大差がない。
小学生の頃から、普通に池袋まで電車に乗って買い物に行っているし、おしゃれしてお出掛けする感はまったくない。

それでも、さすがに無地のTシャツに下はジャージやスエットで行くことはなくなったな。
ちゃんと、服っぽく見えるものを着ていくようにはなった。

帰り、池袋から電車に乗り込むと、席はまばらに空いている感じで、ま、余裕で座れる。

二人分のスペースが空いている箇所を見つけたのでそこに座ろうと・・・

「ここは密を避けるためにわたしが取っています」とばかりにカバン(リュック)を横にどかっと放置している。
目の前に行ってもどかそうどころか、ずらそうともしない。
かまわず腰を下ろそうとして初めて気持ちカバンをずらす、が、ほら、肩紐の部分ケツに敷いちゃったじゃん😆

なんか睨んでる?
はぁ?

発車間際にアベックが乗ってきた。

彼氏の方と目があったのでこれ幸いと、ここどうぞ、とうながす。
他にも一人なら座れる空いている席はいくらでもあるしね、そっちに移りますから、って感じの会話を目と手で交わす。

「スミマセン」と寄ってくる。

カバンを頑なにどかさなかった女。
またこちらをチラ見。

ケッ!

寄ってきたアベックも状況を速把握したよう。
「ああぁ〜!そういうことっすね」って目が笑う。
何も知らない風に二人でその席に、カバンがあろうがなかろうが関係ないね、って感じで座ろうと動く。
カバン女は焦ってカバンを膝に置く。

文字にすると長ったらしい展開だけど、数秒のこと。

どういうつもりかはしらないけど、そんなに密が怖いなら電車乗るなよ。
乗っても座るなよ、隣に座られるのも嫌っ!、っていうなら。

解かれよ、それくらい。

そんなことを思いながら、自分の一連の行動に性格の悪さが滲み出てしまったことを猛省。
ほっときゃぁ〜いいんだろうに。
嫌がらせ、追い込みをして悦に入っていた自分が恥ずかしい。

若い頃はコトバが先に出ていた。

「テメェ、カバンこんなとこに置いてんじゃねぇよ!どかせ、ガキ!」

って感じで。
これもとんでもなくよろしくないが、今の自分よりかはまだまともだった気がする。

まだまだ自分の中にはクズなわたしがいる事がよくわかった。

で、クズな自分、しでかした事象、言動は、常に振り返り、くどいくらいに否定する必要がある。
たとえ、社会正義と言えるようなことをしたとしても、そこには必ず、何かしらの反省点があるし、直さねばならない事柄がある。
恥ずべき点がある。

それはいつも受け止めていかねばならない。

「今日の言葉」は、事象だとか、言動だとか、状況に惑わされず、流されずに、いついかなる時でも自分を受け入れる、そういうとこに立てということだ。

いわばごまかしは許されない、そこに立った上で、ごまかせないわたしであるというところに立った人間に向けられたコトバだ。
調子こいている自分にこんなコトバ投げかけたら、多重にアホになるだけだ。

追い込まれた自分、そういうわたしを持っている人へのコトバだと思う。

こういう言葉は、言い方は違えど、よく聞いてきたし、そうするといいよ、と、メンタルヘルスを大事にしている人から言われることもある。

が、少なくとも今のわたしには不要な言葉でもある。
なぜなら、そこまで追い込まれてもいないし、自身をそこまで追い込んだこともないから。
こんなことを自分にしでかしたら、気持ちの悪い、それこそカバン女のような自分になるだけだ。

この言葉を素直に受け止めて、なんか救われた、そういう人はそれでいい。
とてもいい。
ひとりでもそういう人に届けばと思う。

この言葉を自らに掛けて、そこに悦に入っている、それで笑みが漏れるような余裕があるなら、今は必要のない言葉だと思う。

玉木さんは、生まれたときから脳性麻痺があり、今も普通の生活の中で悔しい思いや理不尽な言葉や状況に打ちのめされそうになりながらも生きている方だ。

だからこそ、こういうコトバが大事であり、ここに書かれているように、救われた思いというより、生きていて良いんだ、という涙が流れるような、生死と面と向かって生きているからこそ大事と言える。

オレには言えない。

そこまで死と面と向かえてないのだろう。

まだ、ほんとうの意味での生を生きていない。

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