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趣味

娯楽というものは
生活を楽しむことを知らなくなった人間が
その代りに考え出したものである。
それは幸福に対する近代的な代用品である。
幸福について
ほんとに考えることを知らない近代人は
娯楽について考える。
       三木 清

基本、まいにち
写真を撮りに出ています
車を運転しています
テレビを観ています
パソコンでネットを覗いています
iPhoneでもアレヤコレヤやっています
SNSも
Facebook.Twitter.Instagram.
Pinterest.note.Tumblr.LINE
と、結構やっています
読書をしています

これらがなくなったら
わたしの生活は
楽しくなくなるのだろうか
無為に過ごす
そんな空しい生活になるのだろうか

おそらく
なると思う

ひとつふたつなくなったとしても
べつだん大丈夫なのだろうが
まったくやることが
気を抜く手段がなくなったら
おそらく
焦って
次の手段を探すだろう

食べ歩くとか
飲み歩くとか
走るとか
なんでもいいから
次の
自分の存在を投影できる手段を
探し回る

認めるしかないよね

もう娯楽がないと
楽しく生きられない自分を

衣食住が足りたとしても
そこに
幸せを感じられない
プラス・アルファがないと
いや
プラス・アルファが
幸せの条件だと思いこんでいる

社会が便利になればなるほど
幸せの条件のハードルは高くなる

まだ
自分が子供の頃は
そうとう低かった

ご飯が食べれて
家族がいて
安心して
笑えて
泣けて
喧嘩もできて
寝て
起きて
なんか幸せだった
みんなそんなんだったから
それが当たり前だった

どの家にもテレビが有るのが当たり前になると
テレビのない家の子供は疎外感を持った
「ドリフ見た?」
「コント55号っておもしろいよね」
「ひょっこりひょうたん島}
「黄金バット」
そんな会話がされる中に入れない
テレビが幸せの条件になった

そうして時が経て
どんどん幸せの条件は増えてくる
あれもこれも
気が付くと
幸せになるために
便利になるために
楽に楽しく生きるために造り上げられた
多くの幸せの条件は
不幸の条件となっていった

条件では幸せは手に入れられない

条件が満たされたとしても
その条件は手に入れた瞬間
次の条件への呼び水になってしまう

条件は条件でしかない

いま・ここを幸せに思えなければ

しあわせは
いつも
じぶんの
こころが
きめる 
   相田みつを

わからないでもないが
そのこころが
自分のものではない

以前にも書いたけど
(以下参照:「きんぽうげ」)

こころが
造り上げられたものなのだから
状況が
時代が
作るあやふやなものなのだから
幸せの判定は
社会の流れが早い現代
いよいよ
自分でできなくなっている

そんないま
もしできることがあるとしたら
自分で自分を騙すこと
いま
楽しいよ
いま
美味しいよ
いま
幸せだよ

そこに安住するわけではない

楽しく
美味しく
幸せだから
安心して
時代を
怒り
悲しみ
苦しむ

ストレス
いいんじゃない
ストレス感じるよ
でも
それをも楽しんでやるよ

やせ我慢?

痩せれればね

強がり?

強がらないと怖いだけ

目指すは
自分自身を
娯楽にすること

趣味は?

はい、わたしです!(^^)!



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