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すでに極楽にいるらしい。

うちに地獄を見いだすもののうえに、はじめて人間としての謙虚さが開かれてくる。
浄土にふれてくるそこに、人間としてのほんとうの勇気、ほんとうの智というものが開かれてくるのだ。
          宮城顗

明日で4連休も最終日ですね。

で、わたしはというと、明日でようやく折り返し地点に到達した感になる。
けっこう疲れのピークだったりもする。
彼岸の中日。

明日が終えると、折り返して後半を疾走するだけだぜ!

と、先程、予定表を見た。。。

翌日が土曜で、その次は日曜なのね。。。

ドッと疲れに襲われそうになった。

寺は土日祝日が一番忙しい。
みなさんの多くが休みの日に法事を執り行うことが多いから当然そうなる。

で、彼岸は25日に終わるのだが、その日にうちでは総供養的な法要を執り行うので、けっこうハードな一日となる。

ちょっと気を抜いて、ゆっくり出来ると思った翌日が土曜で、法事で埋まっている。

いつもながら愚痴ぽくて申し訳ない。

いま、わたし(W)は来客(A)と話しをしていた。

A「急に涼しくなりましたね」
W「夏の疲れがドッと出てきちゃいますよね」
A「はい。でも、少しは休めました、4連休で」
W「忙しかったんだ」
A「コロナでいろいろとやり方も変わったり、慣れない仕事も増えたというのもあるんですけどね」
W「大変だ」
A「でも、いま、忙しさ真っ只中ですよね?」
W「そうだけどね、それで助かっている気もする」
A「?」
W「ちょうど彼岸の入りの日から涼しくなったから、気が抜けずに済んだような。これで、なにもなくてこんなに涼しくいきなりなったら、気が抜けちゃって立てなくなりそうで😅」
A「なる!」
W「ついでに、彼岸明けても、翌日が土日だし」
A「じゃ、ちゃんと立ってなきゃならない😆」
W「いやでもね😆」

こんな他愛もない話。

でもそれで気が付かされた。
仕事でもなかったら、いやそれが仕事でないにしても、何も予定がなかったら、オレはもしかしたら落ちてしまうかもしれないな、そんな危なさがあるな、って。

きっかけなんてなんでもないんだよね。

言葉かもしれないし、気候かもしれないし、まったく身に覚えもないなにか些細なことかもしれないが、それがきっかけで人間の心なんて簡単に自制が効かなくなり、簡単にコントロール不能になる。

身体の機能もだけど、頭の機能も、意識も、全てが簡単にいつでもコントロール不能に陥る危険性を持っているのが人間なんだろう。

そんな、またどうにもならない、どうでもいい理屈を頭に浮かべて、そこで、「危ない、危ない。気をつけよう・・・。」なんて感じていた。

ばかじゃねぇか?

コントロール不能になるってことは、気をつけようがないということだ。
そう考えていた矢先に、舌の根も乾かぬうちに自分でなんとかできると思いこんでいる自分が現れた。

じゃぁ気をつけなくてもいい?

それも違う。

どうにもならない自分であることに気を配ること。
どうにかなると思い込まないこと。
自分自身の想定外はありうること。
そこに時々思いを寄せることが必要なようだ。

気づきをくれる人、事象、言葉、芸術、なんでもいいから、自分のそばに置いておくことは大切だな。

幸いにも、自分の場合は、それを持って多くの人が訪ねてきてくれる仕事をしている。

喜怒哀楽、悲嘆、憎悪、恐怖、無感情という感情、わからないという自分、もちろん喜び、幸福感も、いろいろな感情を持って訪ねてきてくれる方が多くいる。

その人々と話をしていると、「人間とは」とか「人のあり方」とか、そんなもんではなく、思いもしれない自分に遇えることが多々ある。
傲慢、乱暴、温和、情熱的、優しい、などなどいろんなのが出てきて、どれもどうも嘘くさくて、結局のところ、まったく自分が見えてないことに結論づく。

だから、いま、立てているんだなと。

さ、そうはいっても、あと4日で彼岸わ終わる。
忙しさは続くが、気分は一段落できるし、翌日も忙しいので起きないわけにはいかない。
そう考えるとありがたいこっちゃ。

う〜ん。。。

自分の思考の渦に飲み込まれている時、まさに今は、恐らくは地獄にいるのだろう。
でも、実は、こんだけ気づきをくれて、気づき続けにゃならん状況に追い込まれているということは、わたしの外側は「彼岸」=「極楽」のようだ。

実はわたしはすでに極楽浄土にいた!と、飲み込めるまで、このままうだうだ言いながら生きるのも悪くない。

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