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怳忽の間

悲しいかな、
人間は自分の見たものしか
目に入らないのだ。
見たくないものは、
大雑把に無視している。
無視とは見殺しと同義語なのだ。
        武田定光

出だしにちょっと愚痴から入らせてもらいます。

東京都知事選挙を受けて

昨日は東京都知事選挙の投票日だった。
相変わらずだが
投票率の低さに唖然というか
呆れてしまっている。

国政選挙でもそうだが
無関心というよりも
無責任としか思えない

選挙権がない人が多くいる
若年層・多国籍の人々
多くの人々が日本で
東京で暮らしている
そうした人々の生活を背負っている一票でもある

興味がないでは済まない話だ
わたしの一票で変わるわけがないと
そんなてきとうな理由で
投げ出していいはずがない

投票しないのも意思表明だ?
意思表明と言えるような意志はないだろう。
ただ面倒くさいだけ
目先の遊びが大切なだけ
考えたくないだけ
考えることで
自分の現実を見させられるのが怖いだけだろう。

自己弁護に過ぎない

自分に選挙権があることの大事を考えてもらいたい。

怳忽(恍惚)の間

  *怳忽(こうこつ)は恍惚の旧字体です。

なにかわからんけど
気がついたら
社会が大変なことになっていた!

はっ!としたら
そこにありえない問題が!

その「わからん間」のことを
怳忽の間という。

ともすると
われわれは
そこで生きていることがある。

いや
基本
どんなに注意深く、
思慮深く生きていようとも、
「怳忽の間」に身を置いている。

だから不安で致し方ない。

見えないなにかが怖くてしようがない。

それで、どうするかというと、
見ないようにするか、
無いことにするか、
無理やり形付け、
理由を捏造して、
わかったことにして、
安心しようとする。

悩み反省することは人間の特権です。

人間は「形」を見て物事を判断する。
すべてを形態化しなければ、
思考することも、伝達することも、
関わり合うこともできない。
だから、形のないもの、見えないものに、
脅え、戸惑い、無理やり形態化しようとする。
そして、自ら形態化したものに
脅かされ続けているのが事実。

幽霊もそう。
現象として理解できないものを、
そのままでは怖くてしようがないので、
何かのせいにしたくて
無理やりに形付けたものの代表だろう。

それを上手に図案化したり、
言葉で表現したりした方がいてくださったので、
何となく幽霊というものが
頭の中に描けるようになった。
足がないとか、手がダラッとしているとか、
最近では普通に見えるのだけれど、
なんか薄くて、ボワッとしていて、
透き通っているような(映画等の影響だな)とか、
そんな感じで、それがいろいろやらかすと。

現在の社会で生きている私たちにとって一番厄介な「形」は、
「数字」や「科学」なのかもしれない。
何の根拠もない数字というものを媒体に
物の価値、人間の価値までも決めている。

その傾向がますますひどくなっている。

形を感じるために編み出した数字が、
すでに形そのものになったような錯覚の中で生きている。

実質数円の紙切れ一枚で、
一万円だ、千円だ、と言って、価値を決めている。
この段階でも、変と言えば変なのだが、
現代では、物の価値基準を無理やり作りたくて、
それを形として感じるために作り出した硬貨や紙幣というものすらなく、
空想上の数字(コンピューター上とか)が大事になっている。

そして科学というものも妄想、妄念の産物である。
科学が、その根本に置いているものは「哲学」の立証。
全ての科学の素となっている「原子」というものを位置づけたのは、
約2400年前にいたデモクリトスという哲学者だ。
「原子」という考え方は、
「なんか変だなぁ」という考えを、
哲学者たちが何百年も経て言葉で形態化したもの。
だから、根拠のないもの。
極論だが、科学も数字(経済)も幽霊と同じというわけだ。

言葉も「心」を形態化するものだ。

しかし、私たちは、「おかしいよなぁ、そんな社会」と思っても、
形を頼らなければ何一つ考えられないし、
お互いの意思の疎通もできない。

だから、こうしたものを否定しているわけではない。
ただ、私たちが今の生活で「よりどころ」としがちなものは
大方が曖昧なものである、ということは知っておく必要がある。
価値観というものの曖昧さを。

釈迦は、
「形というものも、心にも、言葉にも、真実はない。
 何故なら、全て、一定ではなく、変化し、壊れ去るものだから」
と説いている。

それが理解できない、
納得できない、
飲み込めない。
それならば、
その「形」にとことん関係していき、
悩み抜き、
何を「よりどころ」にするのかを探すことこそが一生の仕事だ。

社会常識だとか、経済だとか、
いい加減な報道だとかに振り回され、
安易に自分勝手な回答を出し、
考えること、悩むことを放棄する。

そして、どうせ集団の歯車でしかないし
と、いじけながら生きるのだけはゴメンだ。

他からどう見えようが知ったこっちゃない。
あらがって、諦め悪く生きていたい。
そのほうが、
ムカつくことは多いいけど、
敢えて、苛つく場所に足を踏み入れれるようなもんだが、
呆けて生きるよりかは、
わたしの性分に合っている。
おもしろい。

どうせ悩むのなら、
「オレには怳忽の間なんぞない!」
と、強がりながら、ビビっていたい。

人間だからこそ、
こんな糞つまらないことに、
悩めるし、憤慨できる。

その特権を放棄する、
そんな愚行だけはしないでいたい。 


  

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