習慣とは言えない習慣
習慣は自己による自己の模倣として自己の自己に対する適応であると同時に、自己の環境に対する適応である。
習慣によって我々は自由になると共に習慣によって我々は束縛される。
三木清
毎朝「石神井公園」に写真を撮りに行き、その中から一枚を選び、何らかの言葉を本やテレビなんかで探し、写真と言葉を併せてFacebookに載せるように成って8年が経つ。
途中、何回かやる気が出ないサボリ期はあった。
それでも、8年で2640枚の写真を載せた。
1年330枚。
ま、ほぼ毎日に近いから、毎日ということで。
大雨の日も、台風の来ると言われている日も、雪の日も、なんだかんだと着込んだりして写真を撮り歩いている。
台風とかはさすがに危ないので、「明日はやめだな」と思っていると、東京に直撃するのは夜中、真っ昼間、とか若干時間がずれていて朝行けてしまう。
そうなるとなんかよけいに意地になって行ってしまう。
行かなくても、誰にも叱られないし、苦情もないのに。
写真もだが、言葉探しがけっこう大変だ。
一応、自分の中で「どうしても載せたかったら同じ言葉を何回載せてもOK」というルールを作り、何回かは同じ言葉を載せている。
それに、載せたことないだろうと思っていた言葉が、実は載せたことのある言葉だたこともある。
ただ、基本は同じ言葉は載せないという縛りを付けて始めたもんだから、もう大変😅
それにしても、なんでこんなことを必死こいてやってんだろ?
べつに誰かのためでも、褒められたいからでも、ましてや「自分が楽しくてしようがないから!」なんてことはまったくない。
そりゃ、褒められれば嬉しいし、この言葉を読んで誰かしらが何かを感じてもらえれば、なんて色気もないことはない。
でも、その僅かな自己満足とのんびりと過ごす朝のひととき、どっちが好き?
と、問われたら、確実に後者のほうだ。
でも、現実は前者を選んでいる。
それどころか、「Tumblr」や「アメバ」でやってひと月保たずにに断念していたブログなのに、この「note」で再開するし。
もう5ヶ月も続いている。
これまた、多くの方に読んでいただきたい!なんて気もまったくなく、いつも、好き勝手に書きなぐっているだけだ。
じゃ、好き勝手だから楽しくてしようがないのか?と問われれば、そんなことはまったくない。
ま、自分の考えていることを書きなぐることで、考えの形が少しだけだがみえるということはある。
それは、仕事にも役立っていないことはない。
でも、じゃ、仕事のため?といえば、そんな気はない。
つまり、8年続けてきた「今日の一枚と今日の写真」も半年続いている「note」も惰性で続けているというのが事実だ。
習慣にも成っていない。
たとえば、もうやめた、とカメラもPCも売り払うなり捨てるなりして完全に終息したとしても、自分の生活スタイルにさほどの影響はないと思う。
楽に生きれるぜ!って感じになるだろう。
習慣にもならないこの苦行は、自分を苦しめているだけなのか?
でも、2〜3ヶ月写真を撮りに行くのサボっていると、無性に写真を撮りに行きたくなる。
行きだすと、また毎日、作品になるようなシチュエーションや被写体を探すのに躍起になり、まったくこれというものがなくてもその中から無理やり作品を作り出すということに没頭し、UPし、あとから改めて作品を見て落ち込む。
それでも一旦スイッチが入ると、なんかのきっかけでガス欠になるまで続く。
言葉は探さなくなるとますます目につく、耳につくようになる。
気がつくとメモしたり、書き写したり、打ち込んだり、言葉のストックが増えていく。
それを、誰でもいいから、誰かに「こんな言葉があるんだよ」と伝えたいというスケベ根性が出てくる。
そこで、それを載せたいがために写真を撮りだしたこともあった。
で、ストックしておいた言葉を読み返すとピンとこない。
その時に「これだ!」と思ったとしても、その時のわたしと今のわたしは違う。
言葉は生きている。
ゆえに、結局はその日の朝、ひたすら蔵書やらなんやらを引っ張り出して探すのが合っているようだ。
結局、習慣とまではいかないが、楽しくてしようがないなんてことは絶対にないが、苦しくて面倒くさくてしようがないが、自分にとってそれが掛け替えのない時間になっているようだ。
自分では環境に対する適応のためとは思えないが、自分の潜在している面倒くさい性格に自ら適応しようとしているのかもしれない。
そんなこんななので、当分は続けることになりそうだ。
習慣になるのが早いか、スパッと潔くやめるのが早いか、どちらに転ぶのかを自分自身で見届けるのも悪くない。
ところで、自分の習慣ってなんだろう?
ルーティンってあるのかな?
それすらもわからん😅
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