アニメ【推しの子】6話〜7話の黒川あかねから見る現代の病ませる思考と病める思考の考察(と感想)
注意事項
本記事はアニメ勢である私が、現在放送されているアニメ【推しの子】について書いている記事です。そのため、アニメで今まで放送されてきた内容(1話~7話)のネタバレを含みます。
…ってことで、読んでくれる人はスクロールしてね!ありがとう!
これを書いた経緯について
どうも、ちりめんビブラートです。最近参加している社会活動は、ほぼ消費だけです。
そんな自分なので、昨日も
(寝られへんなぁ、そういや今日は推しの子の7話公開日か…ニコ動で見よ)
となったわけです。また、先週の6話は自分も未遂を起こしたことがある(一部のこれについてはhttps://note.com/tirimeen/n/n8aa031d5d263にて書いています、興味があったらどぞ)のであまりにも共感してしまい、しんどくなりながらも号泣していました。そんな事情もあって、先の展開を知らない私は(7話でどのような流れになるのだろうか…)とそわそわしながらも即座に再生しました。
率直に言いますと、度肝を抜かれました。
恐らく原作勢の方達も驚かれたのではないでしょうか、あのラスト数十秒の演出と演技に。第一声だけでも視聴者に対してアイが顕現したように感じさせる。さらに、たたみかけるようにアイを間近で見て知っていたアクアがあかねを見て驚嘆し息を呑む演出が、より視聴者に””本当にあかねのそれが精巧なものなのだ””と理解させる。
私はこれを見て(なんと素晴らしい演出なのだろう…)と脳汁を出しながらニコ動のウィンドウを閉じ、始まりの地(Twitter)へと向かいました。
そして、7話についての感想や考察や二次創作などを漁っていたのですが、その中でこのようなツイートを見つけました。
これを読んで、確かにその側面も感情を揺さぶられた理由の一つとしてあるなぁ、と気付かせられました。
… …書きたい、ここから着想を得ていっぱい推しの子へのクソデカ感情を消化、いや昇華したい!!!
ということで、電子の筆を取らせていただきました。
これからはなんかレポートチックになったので、~だ~である調で書いています。それでは、本編すたーと!
考察・感想 本編
自分が行った、黒川あかねの病みへの同一視
6話を見て、自分は黒川あかねの病める心理について共感した。
そして、似た体験をしたことがある自分は、その過程で少なからず同一視をした所があったと思う。
だが、7話で自分と黒川あかねは""似た体験をしているだけの他者である""と、あの演技などの能力をもって知らしめられた訳だ... ...。
これは、先述の引用のツイートを見て出てきた最初の感想だ。(ツイートしようとしたが、ネタバレ気味だな…と思い、こっちに書いた)
正直、自分は精神的に安定しているとは言い難い状況にあるため、自他の境界がーたとえ二次元が対象であったとしてもー曖昧になりやすい傾向はあると言わざるをえない。
だが、自他の境界が曖昧になるのは””病んでいる人だけ””だろうか?
そこで、「多角的な視点」といった言葉からこれについて考えてみたい。
多角的な視点から「人間」を見ることが出来ているか
「物事は多角的な視点から見るべきである」といったフレーズは様々なビジネス書であったり、自己啓発などの言葉として自明に使われている。勿論それだけ多用され、浸透しているのだから、何か課題が出てきた時には意識している人も多いだろう。
しかし、私達は対象が「人間」の場合でも、果たして同様に出来ているだろうか?
今日もニュースや雑誌やSNSなどのメディアでは、様々な人間についての様々な情報が飛び交っている。
この場合については、【推しの子】の7話でも触れられていた通り「メディア側の編集によって対象のイメージが操作、捏造されることがある」といった事実があることや、そもそも報道の対象になった人と直接的な関係ではないことが殆どで興味が無かったり、他人事に出来ることから、ある程度引いた余裕のある位置から見ることが出来ている人もいると考える。
対して、リアルの「人間」の場合はどうか。
この家族や友達やビジネスの場において関わるような""リアルの身近な人間""こそ、自分がより多角的な視点で見た方が良いと考える人物である。
リアルに会っている人間についても、私達は見た目や会話やSNSの投稿、閲覧など多種の手段を通じて様々な情報を得ている。そして、リアルで会っているからこそ、より得た情報を真に受けやすい。
これは自身の五感は正しい、信じられると考えている人が多いことに起因していると考える。それは""百聞は一見にしかず""といったことわざや””頭でっかち””といった言葉があることからも言えるだろう。
しかし、本当に五感は100%正しいだろうか?否、正しくない時もある。
感覚器には錯覚というものがある。視覚に限って言えば、これがあるからトリックアートを楽しめる訳だが、言ってしまえば「本当は平面であるのに立体である」などと事実誤認をしているのである。
つまり、自身の五感すらも完全には信用出来ないのだ。
これに加え、勉強が出来ないなどのネガティブイメージを人に持った場合、だから何をしてもダメなはずと決め付ける、自己責任論や精神論を翳す、馬鹿にする、放っておく…こんなことは結構身近にあるし、実際私も受けたことがある。しかしこの場合、ほぼ勉強という観点からしかその人を見ていない。
【推しの子】では、7話でアクアはカメラ演技が主戦場であったことから、その観点からでしか黒川あかねを見ることが出来ず、才能に気付けなかった。
「間近で自分はその人間を見ている」という状況に慢心することで、多角的な視点が失われるのだ。
これに関して、心理学において「ハロー効果」というものがある。
先程述べた勉強が出来ないというネガティブな特徴が対象へのあらゆる評価を下げてしまう事例も、このハロー効果が大きく働いているように思われる。
以上のような要因が絡み、人間に対する視野狭窄に陥っているのだと推測した。
これらのことを踏まえると、病んでいる人以外も自他の境界が曖昧になることは多々あると言える。
病ませる思考、病める思考
さて、病んでいる人以外も自他の境界が曖昧になることは多々あると言ったが、さらにそこから病ませる思考と病める思考の一因に「自他の境界が曖昧になっている」ことが言えるのではないか?と推しの子を視聴していて感じた。
病める思考の方については、よく精神医学で取り沙汰されるので今回は割愛し、病ませる思考の方の自他の境界の曖昧さについての私の見解を述べる。
例えば、私は飲み物に氷を入れられるのは好きじゃない(飲み物本来の味が薄くなって分からなくなるからだ)。しかし、氷を入れた方が好きだという人は氷が入っている方が好きなため、人に飲み物を提供する際に氷を入れる人は多くなるだろう。
そうすると、少なくとも自分の場合はご厚意で入れてくれたのだな、と認識して有り難く頂きはするが(氷が無い味がよかったな)とは思う。
これは多くの人にとって我慢が可能な小さい価値観のすれ違いであるため、大きな亀裂になることは稀だろう。しかし、これがパーソナリティに関係するような我慢ならない重大なすれ違いだった場合はどうだろうか。
【推しの子】7話にて「発達障害」という言葉が出てきたが、マジョリティは難なくこなせたり、我慢出来ることが発達障害の傾向がある人間にとってはこなせなかったり、耐えられないことが結構ある(かくいう自分もそうだ)。アイは感覚過敏持ちだったとのことだが、過敏の症状が激しい場合、他の人は気にならない(気付かない人もいるかもしれない)匂いや音、光に対して強く反応してしまいストレスを感じるだけでなく、吐き気や頭痛やパニック発作などの身体症状を引き起こす。
だが、そんな人々に対して「我慢出来る、慣れていないだけだ」と言う人達もいる。辛さを訴えている人と全く同じ身体や感覚や能力を持っている訳でもないのに。
他にも【推しの子】7話の前半で、あかねの母親が「どうして話してくれなかったの!」とあかねに対して言っていた。あかねの母親は、恐らく話をして他人を頼ることに対して、あかね程躊躇することが無いからこのような発言が出てきたのだろう。が、人を頼るのにも才能は必要だ。
あかねのような責任感が強い、または自己肯定感の低い人間の場合、頼ること=心配や迷惑をかけることだから避けるべきことだと認識していることが多い(このような考えを自分もしていると感じる人は「認知行動療法」や「認知の歪み」について調べて実践するとマシになるかもしれない)。
それ故に、頼ることが難しいと感じる人もいるのだ。
あかねの母親の「どうして話してくれなかったの!」は、自分(あかねの母親自身)の体験(生存者バイアスも含め)からしか考えていない。つまり、このような意味で自他の境界が曖昧なのである。
まとめ
総括すると、病ませる思考の場合「自分はあの人の思考や能力をまるで自分のことかのように理解している(と勘違いしている)」「自分が出来ていることをあの人が出来ないのは努力ややる気がないせいだ」といった方向に曖昧になるし、病める思考の場合「辛い状況に置かれているあの人の気持ちが分かる、自分の体験かのように感じる」「あの人は出来ているのに何故自分は出来ない」といった風に自他の境界が曖昧になる。
しかし、育ってきた環境、身体、能力などが全く同じでない以上、それはあくまで””共感しているつもり””にしかならない。
この事実を知っておくことで、私達はより他人も自分も傷付けずに済むだろう。
最後に、哲学者のデカルトは""コギト‐エルゴ‐スム""、つまり""我思う、故に我在り""といった至言を遺したが、逆説的に言えば「私達はたとえどんなに身近な人間だったとしても、自分でない以上100%完全に理解することは出来ず、疑い続けるしかない」のだ、と解釈できないだろうか___。
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