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「詩人はつねに有限なものを愛する」

■G・K・チェスタトン『木曜日だった男 一つの悪夢』

哲学者は時に無限なものを愛するかもしれない。詩人はつねに有限なものを愛する。彼にとって偉大な瞬間は、光の創造ではなく、太陽と月の創造なのだ。(P.304)


海外の古典ミステリーを読むうちに、「チェスタトン」という名前を頻繁に目にするようになった。

「どうやら『チェスタトン』という作家がミステリー界における重要人物らしいぞ!」……とAmazonで検索するも、どれを選べばいいのか今ひとつわからず、長らく手を出せずにいた。

この『木曜日だった男』は、先日こちらの記事で触れたラッセル『論理的原子論の哲学』と一緒に、古本屋で偶然出会ったものである。古本屋で見つけた本は、良くも悪くも(ほとんどは“良い”)その場の勢いで買えてしまう。

というわけで、これがチェスタトン入門として適切な一冊かどうかはわからないが、とりあえず読んでみた。

さてさて、チェスタトン。なんとなく堅く渋い本格ミステリをイメージしていたのだが、全然違った!堅く渋くなどなく、むしろテンポが良く読みやすい。

(私の数少ないミステリー知識のうちで)例えるならば、エドガー・アラン・ポーの現実から離れた幻想的な世界観と、アーサー・コナン・ドイルの純粋にワクワクさせてくれる冒険譚をかけ合わせたような印象だ。

ふいにイメージされたのは、映画『チャーリーとチョコレート工場』だ。怪しく、可愛く、少し怖しいベルトコンベアーの工場に、突然足を踏み入れてしまった──そんな感覚。

読み終わってからこの小説が「幻想ピクニック譚」と評されているのを知り、「なるほど上手い表現だなぁ」と感心した。

こうやって空気感ばかりを伝える感想文になるのには、理由がある。『木曜日だった男』がミステリーや探偵小説の“型”からかなり外れており、ごく初期のあらすじ段階からすでにネタバレの可能性をはらんでいるからだ。

──そもそも「木曜日」とは何か?
──「木曜日だった男」って日本語として破綻してないか(原題は“The Man Who Was Thursday”)?

と、最初から疑問がある。さらに読み進めると、

──この小説の「謎」は一体何なんだ!?

と混乱してくる。予想できない展開の連続に、訳もわからぬまま飲み込まれ、気づけばラストまで一直線だった。『木曜日だった男 一つの悪夢』……なるほど!納得の結末。

実は、読了直後は結末に納得がいかなかった。しかしあらためてじっくり思い返してみると、このためにチェスタトンが細部で巧みなテクニックを使っていている気がしてきた(ネタバレになるので詳しく書けないのが残念)。

ジェットコースターのようにアップテンポで激しい高低差のある物語の運びは、どこかギリシア神話のような壮大さも感じさせる。

ミステリー好きな人だけでなく、純文学や大衆小説全般が好きな人もきっと楽しめるであろう一冊。短編の「ブラウン神父」シリーズも人気のようなので、いずれ読んでみたい。

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