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小説 ちんちん短歌・第十話『高齢者のまんこ』

 老婆は、足先を流れる沢の水に浸しながら、社に体を預け座っている。
 腿はひらいており、下衣は身に着けていない。まんこが丸出しの状態でそこにいた。上半身の服はしかし、白く、新品なのか、形のパリッとしたものを着せられている。その上に、黒くしわくちゃな老婆の顔がのっかっている感じ。
 老婆の近くには空の椀やカワラケ(土器)が置いてあり、村の人々から何らかのお供えを受け、それを食って生活しているのだろう。にしたって、社は崩れかかっており、とても住居の役割を果たしているとは思えない。尊ばれているのか、面倒くさがれているのか。

 都で見た、ジサイ(持衰)を思い出した。
 ジサイは宮中にいるのだが、不潔を義務付けられ、基本的にいじめを受けるのだけど、その期間、疫病や災害がなければ褒美をもらえるという、奇特な役職。
 尊ばれながら、蹴られたり罵声を浴びせられたりして。でも、ジサイは微笑む。
 一定時間耐えれば褒美がもらえるからだ。
 だからジサイは何にもせず、ただ叩かれ、蹴られ、尊厳を踏みにじられながら、最後にはワッショイショイとされる。
 短歌奴隷も、おんなじ感じがする、と建は思う。基本、罵声を浴びせられ、馬鹿にされ、でもワッショイショイと生かされる。
 この「おひいさま」にも、なんかそんな感じがするなあ、と建。

「まんこをみているのかい」
 老婆――おひいさまが口をきく。声は高く、あれだ、幼女声みたいだ。
「え……。いえ」
「では、何を見ているのか」

 たしかに建は、まんこを見ていた。女性が股を開いていたら、なんとなく目をやってしまう。高齢者であろうと、女性のまんこは、見てしまう。
 ただ、おひいさまの股間は、光の加減で、闇だった。何も見えない。だから、何を見ているのかと問われたら、なんだろう。夜だろうか。

「まんこは見たことあるかい」
 おひいさまと建の距離は、約40間(72m)。なのに、おひいさまの声ははっきりと、しかしささやくように聞こえる。声の出し方に心得があるのだろう。
 つまり、巫女か。
 巫女は神と交信する際、特殊な発声法を遣う。短歌奴隷も同じ技術を身につけている。建もまた、同じ声の出し方で声を出そうと、気を調える。なんとなくでは、その声は出せない。

 警戒しながらも、おひいさまに仁義を通そうと、手にしていた水桶を置き、手のひらを相手に向ける。
「仁義を……」
「いいよ。大伴の縁者なんだってね。はぐれ女(め)のキイコを抱いてるんだろう。後ろからちんちんを1回いれ、正面から2回ちんちん。口吸いにこだわるのは、あれかい、奈良の都の最新の女の抱き方なのかい?」
 あ、キイコっていうんだ、あの女。美しい女。俺に水汲めという女。俺の死を予言した女。
 この時代、巫女は同時に諜報奴隷、つまりシノビ(志能備)も兼ねるから、そうか、建のこの村での行動は筒抜けだったのか。俺のセックスの体位も知ってるんだ。

「で、なあ。あんたは、まんこを見たことがあるのかい」

 あるよ。あるだろうよ――いや、これは「問」か?

 最近、漢土(中国・たぶんこのころは唐)から入ってきたトレンド仏教に「問」をかけて、悟りを促すという宗派(曹洞宗)が入ってきた。密教とは違うルートなんだけど、これを極めると永遠に命を長らえるらしい。
 その代わり、答えを間違えたら殺される。
 永遠か、死か。
 実際、その宗派は、未熟な答えをする僧は殺される。叩き殺される。公に天の捌き(案。つまり「公案」)を与えられ、仏罰として死ぬ。

 建は考える。死にたくないからだ。
 まんこ。必死にまんこについて考える。おひいさまのまんこを見つめながら。
 まんこを見たことが、俺は本当にあったのか。
 
 まんこ。
 まずこの言葉は、ヤマトの都の最新のミームだ。単に女性器のことを言う伝統的な名称は「ホト」であり、俗な言葉で広く一般に流行しているのは「ソ(オソ・オソソ)」である。
 「まんこ」は、女性器を表す中では、(西暦767年現在)ぶっちぎりで若い言葉だ。これは東宮(皇太子の住まい)の太傅(教育係)付きの女官が言い出したやつ。

 あるとき、漢土から「飩(とん)」という小麦を練ってふかしたものに餡を入れるというわけの分からない食べ物が入ってきたことがきっかけと聞いている。
 この、甘く、白く筋のある、ふかふかしたもの。
 漢土にルーツのある女官の一人が「これ、おまんじゃん。おまんだよおまん。まんまんまん」と騒ぎ出す。
 女官の知っていた食べ物は、「マントゥ」であり、小麦粉に酵母をあれしてフカフカ白蒸して主食にしてライトに食べる奴。蒸しパンに近い。
 一方、いや、これトンですよ、と遣唐使上がりの留学生が説明する。これはトンです、コンドンいいますアル。現地の発音でウードンです。うどん。マントゥ違う者ですうどんアルよーとへらへら笑いだし、しかし女官はゲラゲラ笑っていやいやいやこれおまんですよーまんまんまん。おまん。いやいやうどんうどん、うどんうどんうどんと揉めているうちに、その形状が女児の局部に似ている事をエロい女官が気づいてさらに大爆笑になり、「おまん」「うどん」が女性器を示す宮中ミームになっているなう。

 当時、宮中の女児を相手にする言葉に、女性器に対する適切な名称がなかった。大人になれば「あそこがー」とか「金門がー」とか「毛桃がー」と、定番の物のたとえで何とかなるが、もうそれはエロの領域になっていて、教育的にいい感じではない。
 人を教育するとき、名称がないと何かと差し支える。なにせ、房中のことは貴族の教養として知っておかなければならないことだ。まんこのなかに、ちんちんを入れる。これを知っておかないと、貴族としてやばい。いや本当にいるのだ。元服髪上げの年齢になって、セックスのことを全く知らない貴族ってやつが。
 そこで、この最新のおやつが女児の局部に似ているので、今、東宮の宮中では女性器のことを「まんこ」or「うどん」と呼ぶブームが来て、それで教育するようになった。
 だっから、女性器のことを「うどん」とも呼ばれていた可能性があったけれど、うどん呼称派は藤原仲麻呂の身内だったこともあり、全員粛清され、死んだ。生きのこったはまんこ派だった。

「まんこは、「満」の「弧」と書きます。満ち足りたものの、弧であると」

 建は適当をこく。適当を口にする。
 その声は、特殊な発声法で口に出された。
 地に正しく立ち、天から頭長をつられたかのように立つ。
 足を地につけるのではなく、天に引っ張られるような感覚のまま、足は大地にそっと添えるだけ。これは短歌を詠むときの基本姿勢である。短歌を口にするとき、このように正しく立たなくては、本来発してはいけない。この立ち方以外で、短歌は発せられてはいけない。
 のち、自らを筒のごとくし、中心を失くす。
 その中心へ、「言」という、無であり有であるものを、通す。
 その時、肉体の筒の内側、つまり、心に、魂に、わずかに、「ほぞ」をつくる。「ほぞ」を正確に説明するのは難しいが、なにかこう、傷のようなもの。個性のようなもの。傷口から切なくこぼれ出た「コ」を、肉体で作った筒の内側に創る。それを「ほぞ」と言う。
 その「ほぞ」に、押し出される「言」が掛かり、それがようやく「声」となって、空間を震わせる。
 建の声はこうして、筒から発せられると、ごく小さく、しかしはっきりとした声となり、言がおひいさまにぶつかる。

 その言で、建は、てきとうこいた。
 正しい声と、言葉で、「満弧」という嘘当て字の解説をするということで、「問」についての「応」、「作麼生」に対する「説破」とした。

「満ち足り、すべてであることの、しかし弧であり、周辺であることが、まんこ――つまり、まんことは「輪」であり、「空洞」であります。この目に見える事はございますまい。
 喩えるならば、我が声を出すこの口か。
 口を指させといえども、口はどこにもありませぬ。形あるものはただ唇か歯のみ。口そのものを指をさすことはかないません。塩満者 水沫尓浮 細砂裳 吾……(潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我は)……」
「うるせえなあ」

 おひいさまは笑った。
 ウケたのだろう。おひいさまは、建の真面目腐った解説と、その「声」に笑ったみたい。
 それが建の狙いだった。
 まずは笑わせる。言葉で殺されるかもしれない時は、笑わせてみる。そして、詠う。「満ちる」に関連した短歌を詠ってごまかそう。そう考えたのだが。

「殺そうかな」
 建の短歌詠唱は止められた。
 そしておひいさまは笑いながら、足をさらに広げ、身を乗り出す。
 おすもうさんの、蹲踞で、仕切りをするような態勢。
 落ちる赤い日が、山間から差し、まっすぐにお非違様のまんこを照らす。
 もじゃもじゃの毛と、しわしわの肉。赤い。炎のようだ。そしてその肉は左右に分かれ、空洞が出現していた。
 高齢女性のまんこが、ぱっくりと割れるのを建は初めて見た。ちんちんが入っていないのに、まんこはあんなふうに割れるものなのか。
 そしてその中心は、やはり闇だった。夜だった。黒だった。周囲が赤いのに、その真ん中には、光が全くない。
 
 そこに、「ほぞ」があるのだろう、と建は思った。
 気が付くとおひいさまのまんこは、大砲のようなものになっていた。建の、筒のようなものとは比べようもない、太く強い、満ち満ちた弧が、そこにあった。
 そして、

「乳ぶさおさへ
 神秘のとばり
 そとけりぬ」

 なんだ? ……なんだ?
 蹲踞の姿勢のままのおひいさまのまんこから、何かが飛び出した。大砲で打ち抜かれると、人は死ぬ。

「ここなる花の紅ぞ 濃き」

 短歌か? これは……? 
 おひいさまは、まんこから声を出したのだ。
 ちゃんとした立ち方ではない。だから、本来は短歌として、全く正しくない声のはずなのに……。
 ――乳房!?

 短歌で使っていい言葉なのか? とてもそんな言葉、口にすることはできないはずだよ普通は!
 だって、気持ち悪いじゃないか。「乳」って。おっぱいのことじゃん!
 こういう、ヤバ系の言葉を使うときは、「タラチネの」とか「ヒサカタの」とか、前フリがないと、とてもとても、歌としてまとまらない、口にできない、震えてしまう。言が歪む!
 露骨な言葉。とても、今のヤマトの言葉ではありえない配列と、そのイメージ、シニフィエ!
 そして「神秘」なんていう言葉のチョイスも、ありえない! 絶対に! 漢土由来の熟語の音の言葉なんて、生々しすぎて消化できない、短歌じゃ、まだ。だってただのサブカルなんだから、短歌って。そんな重い単語、だめだって。こんな言葉を詩歌にするのは、1000年ぐらい、ヤマト語が熟成されないと、とても使える言葉じゃない!

 ……「神秘のとばり」を「そとけりぬ」?! 
 蹴るの?
 つまり、まんこ隠しの「神秘の扉」を、蹴っ飛ばすの? 歌中の主体は?
 で、――まんこから、濃くて紅い、花の赤さが出るって……!?
 ああ……殺される……言葉で、詩歌で、イメージで、俺は、殺される!

 おひいさまの短歌を受けて、建は尻もちをついた。
 沢の中ほどにあり、建の下半身はびしょびしょに濡れた。
 ちんちんに、沢の水が染み込んでいく。
 そして、おひいさまの背後から、何かが浮かび上がるのを見た。
 鳥だ。
 鳳だ。
 火の鳥だ。
 一柱の火の鳥が、時代を超え、魂を短歌に変えて、おひいさま――「お非違様」のまんこから産まれ、今まさに建の目の前に現れたのだ。
 火の鳥はそのまま天空に一度飛翔すると、そのまま建の頭上に真っ逆さまに落ちてきて、その炎のくちばしは、建の頭に突き刺さり、建は脳天から全身を焼かれて、多分、死んだ。

(つづく)

乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き
与謝野(鳳)晶子

『みだれ髪』(鳳晶子・ 1901)


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