もしハイデガーが宮沢賢治の童話における幼児性を語ったら

 

 最近ほぼ日刊イトイを漁っていたら、吉本隆明が宮沢賢治を考察するコラムがでてきたのでちょっと読んでみたら、ふーんなるほどと思ってなんかわかったようなわからんような気持ちになったので、自分でもちょっと書いてみる。

 この方はおそらく、よしもとばななのおやじさんといったほうがもしくは通りが良いのかもしれないが、一部では戦後最大の思想家といったふうに目されているらしく、実際にほぼ日での紹介もそのようになっている。

 実際のコンテンツは宮沢賢治に限らず、マルクスからゲーテから親鸞や日蓮なんかの哲学者から坊主までなんでもござれな内容で、もともと講演として録音の残っていたものを有志たちがテキスト化してくれたものと、録音それ自体も聞けるようにサイトに埋め込んでいるのだけど、音声のほうは正直同じ言葉を繰り返してばかりで全然話が進まず、マイクも割れまくっていてオススメはできない。文章化されたものはいらんリピートをサクッと削ってまとめてくださってるので、聞いたら100分のところを読めば15分という最高の時短ができているので、まあ昔の人間が戦前戦後の純文学を、哲学とか宗教からめてどんなふうに考察するのか、みたいなニッチな興味があれば目を通してもいいかもしれない。目次だけで180くらい項目があったからどれか一個くらいは誰かの興味に当たるんじゃないかなって程度ですけど。

 いまだ、ぼく自身はこの人が最終的に賢治の文学に対して、言わんとしていることを完全にはわからなかったのだけれど。

(なんか位相がどうのとか言葉がいちいちムズいんです。)

 ただ面白いと思った点が、ハイデガーと賢治の幼児性を絡めてお話していたところで、それをおおざっぱに、特殊な用語などは一切省いて書いてみたいと思う。なんで幼児性なんていちいち主題にしなきゃならんのか、童話なんだから子供向けであたりまえでしょ、と思われるかもしれないが、純粋な意味で子どもが幼稚のままでいられるという属性の話と、ある一定の期間が人生として過ぎゆく中に、幼さを保存するという手法というか、遊び心の部分は、分けて検証するに値すると思うし、あらゆる芸術や人の枠組みの中で、とても重要なことと思えるからだ。それと賢治の作品は彼自身が、青少年から青春の中庸を生きているひとたちにむけて書いているという発言があるため、より内容に即していると言えるだろう。

 さて本題。彼の言い分では、ようするにハイデガーの言葉を単純化した言い方として、「幼児性」は「循環」をともなった運動であり、それは全体の流れに対抗する、ある種の固執とみることができるという。流れっていうのはまあ、人生と考えていいでしょう。そしてまた、その枠組から「成長」というものを考えたとき、それを現状の否定から新しい形態や様式を受け入れていくことーーと規定すると、成長とはまさにある一点からの過去を否定することによる未来の肯定であるといえる。まあ身も蓋もない言い方をすれば、幼さを捨てて大人になるってことですな。

 ちょうど例えるなら、リニアモーターカーが電子の正負の瞬間的な転換を推進力とするように、一地点の否定は即、新しい力場への肯定となる。こどもから青年、そして大人へと歩をすすめるたび、私達はそれぞれの時点から、精神的にも肉体的にも様式を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変わっているとも言える。まあこんな感じのことをハイデガーは現存在とか刻一刻性がどうのこうのとか前前前世は神曲とかいいながら説明するから誰もわからんくなるんだが。

(ちなみに2019年のSUMMER SONICではRADとBABY METALが被っており、ぼくは可愛い女の子がキツネサイン掲げてるほうが楽しいや、と思って余裕でベビメタを選びました。ライブ直前の映像が「前前前世はこっちじゃないぞ?」と煽ってたのがカッケエ! っておもったんですけど、当日のRADのセトリには前前前世は入っていなかったようです。回想おわり)

 さて、この形態の否定→成長という構図は生物学的にもより顕著であり、母胎内で、胎児はたった一週間のうちに一息に5億年の進化をたどるという。もともと単細胞であった卵子が魚類のような胚を形成し、それは爬虫類のようになり、哺乳類そのものの姿をとおして、最後にやっと霊長類人間の姿になる。ヒトの場合でいうとだいたい妊娠後30日目以降あたりからはじまる変化なのだという。まるで容赦のない取捨選択のドラマチックなショーケースのようではないか。(あるいは修羅の十億年)

 ぼくはこの生物学というか、進化の話を想像すると若干吐き気を覚えるんだけどなんなんだろうね……。なにか自分が、得体のしれない鵺みたいな生き物に感じるからなのか、まあ例の宗教が躍起になって進化論を否定しようとした気持ちもわからなくはないかな。現実とは得体のしれない不気味な事実の寄せ集めだからね。

 まあとにかく、体の成長では精神のそれより、最適化が油断なく時系列順に採択されていくことになる。しかし、精神の面では、それが肉体のそれと歩調をあわせているとも限らないのが人間の面白いところだ。

 ぼくたちは成長のある一定の時期になると、一般的には第二次性徴といったり、あるいは思春期や青春というような期間に、体と精神の不和と、それにともなうある種の倦怠といったものを経験する。それはつまるところ、肉体の進行はかたくなであるのに、精神のそれが都合よく過去を振り切り、あらたに歩みだせないところにおこるものともいえるのだ。

 それはおそらく、精神の側で、過去を否定することが、ある意味ではそれまでの自身の否定に直接につながるものになるのではないかという、存在そのものに対する危惧が働くためなのだろう。

 だが、そういう特別わかりやすい、子供から青年、青年から大人のようなピリオドをまたがずとも、今この瞬間毎にも、私達は過去の私達から脱却しつづけているのではないだろうか? 

 過去は、歴史は、過ぎては二度と取り戻すことのできない風景とかわり、不完全な記憶として、次の瞬間に対応するために提供された情報にすぎないものとなる。そこに因果の鎖をみることはできても、その鎖を事実そのままのものとして手繰ることはできない。あくまで記号的に、情報の残骸が遺伝子や年輪や写真や映像や日記やSMSなどのあらゆる記述で残されていたとしても、その時その場所の過ぎ去った、とある瞬間の実存的な現象は、永久に失われてしまうのだ。

 過去とみえるものは、現在の自分が、自分の居場所に説明をつけるために再構築した限定された情報の断片にすぎない。そしてその把握や検証には、現在を消費しながら行われなければならず、結局、追想ということをとっても、それは過去ではなく現在進行系の情報整理にしかならない。

 つまるところ我々と世界は、そこにあったすべてを、毎瞬かなぐり捨てて今のみに生きているということもできる。そして「今」は、次の瞬間にはまた永久の彼方に追いやられ、あらたな一瞬が、まるで原子が正負の電荷に瞬くように、ひとときも途切れることなく続いていく。それを賢治の言葉にすると、あの有名な『春と修羅』の序文になるわけですね。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 さて、次にここで、幼児性の循環という、最初に提示したお題目を再登場させてみよう。

 こどもという生き物は永久に繰り返される事象に没頭することを心の底からたのしむ。彼らには反復される現象は楽しくて仕方がなく、また楽しいと心が揺れた現象は、文字通り∞回でも繰り返してほしいと望む。公園でよく泣き叫んでるこどもを、その父母がどうにか引きずってかえろうというシーンはだれでもおなじみではなかろうか。そしてどのこどもらの主張も、やだ、パパとまだあそぶ。まだここであそびたい、まだここにとどまっていたい、おなじことをし続けていたいということにつきる。

 この状況を先程の話とつなげてみると、この行為の循環に対する執着固執とは、その状況から次の時点へのステップへの肯定を無視することを望むがゆえである。次へすすむためには、今現在の執着にノーといえなければならない。人は捨てなければ先には進めない。しかし私達の精神には、これが大変心苦しいものとなるタイミングがあるようだ。成長はとまらない。エントロピーの増大と崩壊は時と比例して止めようがない。だが、そういった理は脇においやって、ぼくたちは自身によくよく、前へ進むための必要な犠牲に対して、さらなるNOを叩きつけることを要求する。

 それは図式化すると、ノーにNOを叩きつけることによって、先に進むという肯定を否定する、ということになる。このことを幼児性の発現だと定義しているわけなのだ。幼児性と表現したが、こういった状況におちいるのは幼児だけの専売特許ではない。概して現代には幼稚な大人がはびこるものだし、青年期にあるモラトリアムという期間は、まさに前に進まないために、何かを捨てることを拒絶している状態であるといえる。こういったときに、様式美的に選択される執着の対象は、いつでも回転性の、一定地点を往復する運動をもったものになる。簡単にいえばあらゆる遊びが反復性をもつし、音楽などはその好例で、たった12音のなかの展開にいつまでも酔いしれんとする、極めて循環的な聴覚の遊戯とみることもできる。童話や詩作における一定の節回しも反復的だといえよう。

 事がわかりやすく、音楽や芸術や、その他数多の反復性アクティビティーへのアディクトに済めばまだ幸いなのだが、問題なのがそういった停滞に酒や薬などを併用するようになるパターンで、この場合のドラッグにはたいていダウナー系と呼ばれる精神安定作用をもったもの、大体の場合、酒が一番手軽なものとして、選ばれることになる。中島らも氏は、こういったジャンキーの酩酊性と、こどもの「くるくるあそび」はおなじだという論を展開していたことを思い出す。くるくるあそびというのは、棒状のものならバットでもなんでもいいのだが、それをおでこにあてて、もう一方の端を地面に固定し、それを起点にして自ら何周も回ることによって、のちのバランスの失調を楽しむという、原点にして回帰的で危険な遊びのことである。

(ぼくもほどほどにお酒をたしなむが、酒はまぎれもないドラッグなのだ。停滞を蒸留した神秘の霊薬。不老不死の薬にはエリクサー、ネクター、アムリタにソーマ、変若水に仙丹などなど、まさに伝説と宗教の数だけあるが、それも全て停滞を約束する酒精、ドラッグの異なる表現なのだろう。停滞がなぜ不死へと昇華するのかは後述するが、らも氏は泥酔状態のうちに階段から転げ落ち即死してしまった。ある意味、死を認識できるポイントを一瞬も捉えることなく彼岸へ到達したという意味で超越的とはいえないだろうか。一般に酔生夢死といえば無意味な人生という認識になるだろうが、現実がそもそもF○○Kだということを差し置けば、あながちそうとも言い切れない。らも氏の冥福のためにキツネサインと献杯を捧げたい)

 しかし、こういった最終的には嘔吐を伴うような螺旋めいた遊びよりもなにより恐ろしいのが、アディクトできる対象もないのに先へ進むことを拒否するという精神状態だ。この場合、捨てきれずに回転運動を起こしているものが何かといえば、その対象者個人の精神そのものであることが多い。吐いてしまえばスッキリする遊びと違って、自身の心の中の迷路で楽しむ心暗い遊びは際限がなく、また繰り返すほどにその深化をただただ増していくという、羅患した本人にとってもどうしようもない性質をもつ。捨てなければ先にすすめないが、その捨てるべきが自分自身の精神機構であるところも質が悪い。なかなか今の自分にわかりやすくNOを突きつけることは難しいものだからだ。

 考えるに、遊び、または余興や嗜好や、あらゆるアディクトの対象とは、建設的な未来の否定でもあるのかもしれない。無意識にもそれをよく知っているからこそ、親というものはこどもたちの遊びになんとか干渉しルールを設定しようと躍起になるのではないだろうか。

 話が少しズレた。まあこれまでの話では、定点からの脱却、そしてそれからの逆説的な未来への成長というテーゼにおいて、否定という言葉を便宜上、使ってはいるが、ぼくらの人生の問題においてそれはかならずしも悪いことではない。単純にこのことは、ぼく達が生きるということそれ自体が、絶え間ない選択の連続にあるという、純粋な示唆を提示するということだろう。

 しかしもしある個体が、ある一点での何かに固執しようとするとき。それはつまり精神が先に進むのを拒むということであるが、これは究極的には死への否定とも取れる一手であると、言い換えることもできる。

 従順に迫りくる選択を消化し、把握し身につけ、時がくれば捨て去り、肉体の順応と時が要求する運命を受け入れていった先は、万人と世界にとって共通の、死というイベントに他ならないからだ。体制側からの一生懸命生きようというスローガンは、「歯車になって死のう」ともとれるわけだ。

 そこまでおおげさに、最終的な生体の死と結びつけずとも、ある若者が大人になどなりたくないと叫ぶとき、彼が世界に要求することは、いつまでも瑞々しい人間としての、その自己の保存そのものであり、彼にとってはそれを諦め手放すということは、単純に大人になるということより、その現在の彼を殺すことに他ならない希求的な欲求に違いないのだ。

 もうすこし簡単にいってみよう。たとえば一本のうねった線を引いたとしてこれを人生と呼ぼう。だけどそれをよくみると本当の一本の線ではなくて、拡大するといたるところに小さいループができている。このループにハマることを、幼児性とか、モラトリアムとか、ひきこもりとか、○○中毒とか呼ぶわけね。だからこのループにはその良し悪しもあるし、また人生のどの地点でも何度でも繰り返されうるし、ようはそれは終わりまで行きたくない、まだ死ねないんじゃー、という無意識の願望なのだという話。脱原発どころか脱脱皮みたいな最強の停滞=思想の上では不死、みたいな禅問答ですね。

(ループにハマるってことは、その一瞬は時の流れの埒外にあるわけで、それに没頭しているあいだは、わざわざ旅の終わりのほんとうの死の駅までたどり着くことはないというわけだ。いわばマイクロ不老不死が人生のそこかしこで、あらゆる妄想や幻想、幻覚や熱中や物語や芸術という形でぼくらの人生に交差する。むしろそのマイクロな不死性のなかでは、死は永久に現実にはなりえない。サザエさんは年をとらず、クリリンはなんども生き返り、ワンピースはまじで終わらない。でも、あらゆる夢はやがて覚めるし、実際に銀河鉄道が終点につくまえにジョバンニは目覚めた、いや目覚めるしかなかったということだ。ぼくのなかで銀河鉄道は、まあるい緑の山手線だ。いつまでも乗り続けられるような描き方もできたはずだ。だが宮沢賢治はそれをしなかった。ここに娯楽オナニー作品と彼の芸術の違いがある。物語がその役目を終えてこそ、読者に伝えられるものがあるのだ)

 さあここでやっと賢治の童話に戻ってくるんですが、ようするに宮沢賢治はこの幼児性の天才だった、という話なんですね。まあ評論のなかでそういう言い方はしてないけど、ぼくはそういう響きを感じたし、そんなん言われなくてもそう感じてる方もおられることでしょう。

 たしかに、彼の童話って現実からいきなりシフトする話が多いんだよね。いきなり童話ですよって始まるはなしより、普段通りの生活、猟をしたり、苦学生としてお母さんの面倒をみたりという、あたりまえの現実の状況の中から、いきなりフッと、幻想の世界へ旅立ってしまう。森をあるいていたのにいつの間にか童話の世界にまぎれてしまう。吉本さんや、これは他の人にも同じ意見がありますが、それは死に隣接した、または死後の世界そのものといってもいい場所を現世に並行でもってきて、表現できる才能であるといっている。

 で、ここを掘り下げていくと、その表現というのも、つまりは死の世界というよりは、あくまで上記で解説してきたような、ループ内世界への逃避に他ならないんじゃないかなってことに繋がってくる。ループの中というのは、これは死を否定している時間軸なわけだから、仮不死とでも呼べるものだとして、さらには、宮沢賢治は非常に仏教的な、とくに法華経の思想を強く持って作品に反映してきた方で、死後というと、これは解脱ということになって、もう死を再びまたぐ必要のない境地へ行ける、いや行けるように生きることが大事なんだと。まあ、そういうことを童話にも詩にもあらわしていて、ここが人によっては賢治作品を説教臭いと遠ざける要因でもあると思うんだけど、そういう理想の実現が、生きているうちに実感できるはずなんだと、固く信じていた人だった。逃避でも解脱でも言葉はなんでもいいけど、生死という枠組みの考え方に、別ルートを設けようという試みが、宮沢賢治の心象スケッチであり法華文学なんだとぼくは思う。

 さて長々書いてきたが、あわせると以下のような言い方ができる。

 宮沢賢治の童話世界は、幼児性のループ世界である。

 ループ世界とは、とめどなく進行していく現実の生から死への、直線的な問題から逃れ、あらゆる精神的な手段や思想を用いて、一時的な不死性を担保するものである。そしてそこへ留まろうとする傾向を幼児性という。

 仏道における輪廻からの解脱とは、死を超越した悟りの境地である。生まれて死に、また生まれて死ぬという一つの転換から抜け出し、生も死も経験されることのない、あらたなループ世界の実現とその永久的な固定である。

 つまり、

 幼児性=ループ=幻想=現実の超越=死の否定=アドレッセンス=悟り=モラトリアム=幸福=南無妙法蓮華経=仏=宇宙=円環=幼児性、といったような∞に意味拡張できる、「環状線・銀河鉄道・南十字星周り終点なし」 これが賢治の宗教的宇宙観なのだ。

 まとめるとこんなかんじ。

 『宮沢賢治の詩や童話における幼児性とは、仏教的な解脱を、現世のうちに作品世界として表現しようと努めたところにおける、永遠の青春への肯定と、その円環への讃歌である』


 ……だけどね、こういうのって絶対的な矛盾を同時に孕んでるんだよね。だって、それをどういう形で表現したとしても、現実問題僕らは死ぬわけで、物語にしても幻想にしても最後はどっかに落ち着かなければいけない。

 生も死も分け隔てなく運ぶ銀河鉄道は、本当に夢の世界へ永遠に連れて行ってくれるわけではない。そんなことは賢治もわかっているから、物語の中で主人公はちゃんと現実へ戻ってくる。彼が望んだのは、本を読みおわって、そのループが閉じた時に、僕たちのうち誰かが、この枠組を超えた世界感を実感し、なお、それを死のそのときまで心にとどめてこれからを生きていけるかどうか、ということに他ならないのだろうと思う。ここが芸能娯楽としての、本当の逃避との違いだ。ただ単に、現実を忘れるためのループに人々を放り込むような書き手だったならば、大衆作品をものした文豪という扱いになっていたかもしれない。彼はそうではなかった。だが明確に、読者が本を伏せてからも、あたりまえに連続して続く、それぞれの本当の人生に思いを馳せることができた、稀有な作家だったのだ。

 宮沢賢治は冗談抜きで、ただの逃避ではなく、まさに宗教的な体現としてこの生死をまるごと超えたところにある枠組みを、作品をもって全ての人々に伝えようとした。本当にその完璧な幸福の実現を追い求めた。それは彼が毎日唱えていたという法華経というお経の最後の文言にも現れている。

 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就佛身

(いつでも念じてる、どうしたらすべての人々が、至上の道へいたり、仏として成仏できるだろう)

 最後に『農民芸術概論綱要』からの彼の言葉でお別れしましょう。

“世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”

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