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ポートランドと日系アメリカ人

シアトルから列車で3時間ほど南へ下ると、ポートランドという街がある。この移動でワシントン州からオレゴン州に変わる。

2006年冬、この街を一人でぶらついた。

当時はマリナーズでのイチローの活躍もあり、シアトルの街は知っていた。しかし、ポートランドという街は知らなかった。まして、この街がオレゴン州最大の都市だとは知るよしもない。

僕が日本に帰国した後、ポートランドはオレゴン州どころか全米で最も住みやすい街として急激にその人気や知名度を上げていくことになる。

ポートランドに着いた翌日、朝から雨が降っていた。

可愛らしい一軒家の宿に泊まった。

狭いラウンジの窓から閑静な住宅街をぼんやりと眺めている時、テーブルに1冊のノートを見つけた。

これまで宿に泊まった旅人たちのメッセージが書き綴られていた。あらゆる言語で書きこまれていたが、日本語のメッセージを見つけた。

「夫婦でアメリカ西海岸を旅してます! ここからロスを目指します!」

僕もペンを握り、一言だけ書いた。

「この旅で彼女ができますように」

書き終えると虚しくなり、外に出たくなった。

街の中心にウィラメットという大きな川が流れている。

バーンサイド橋のたもとに出ると、悪天候にも関わらずサタデーマーケットが開催されており、地元の人や観光客で予想以上に賑わっていた。

食材はもちろん、衣類、雑貨、陶器など、多彩な商品が並ぶ。寄木細工のような、木製からくり箱をたくさん並べる店の前で足が止まった。

手に取って遊んでいるうちに衝動買いしてしまいそうになったが、荷物の量がどんどん増えていくことを恐れ、あと一歩の所で考え直した。

マーケットの散策を楽しんだ後、雨が止んだので川沿いを歩き始めた。

「Japan History Square」

気が付くと、僕はその広場へ出ていた。

どこか寂し気な、しかし馴染みのある木が川沿いに整然と並んでいた。

桜の木だった。

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100年以上前、この広場の周辺にはたくさんの日系アメリカ人たちが暮らし働いていた。戦前は「ニホンマチ」とも呼ばれるほど大規模だったという。

やがて第二次世界大戦が勃発すると、祖国のためにお金を稼ぐといった彼らの心境も少しずつ変化していく。

「祖国日本を思いながらも、我々はアメリカ人として生きていく」

ハワイ島やアメリカ西海岸に渡った日本人たちは、労働において差別的な扱いも受けた。しかし勤勉な日本人たちは、アメリカ人たちの市場を荒らすほどの危機感を与え、やがて強制収容所の設置や排日運動がさかんに起こった。

そうした苦境におかれても、彼らは必死に働きその地位を確立していった。

広場の中にあった石碑にはこんな言葉も刻まれていた。

「百家の 足跡尊い 日系史」

残念ながら、12月の冬で満開の桜を楽しむことはできなかった。

結局、旅中にガールフレンドができることもなかったが、曇り空に覆われたポートランドで日本との繋がりを発見できた。

***

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ウィラメット川沿いの桜とスチール橋

(ポートランドの散歩道 その3  ウィラメット川沿いの桜並木)

僕が現地で撮った写真はぱっとしないので、画像拝借しました。ギャップをお楽しみください。

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