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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(65)

〈前回のあらすじ〉
 福島で別れた柳瀬結子は、直の足跡を追って清水までやってきていた。そして、諒よりも先に風間教授ど会い、直が何故海洋生物学を見限って原発に身を投じ、自分を置き去りにしてこの世を去ったのかを知った。そして、一人で生きていく気力を失い、三保の海に身を投げて自殺未遂を図った。

65・だから、つまずいても転んでも、純真を貫いて生きてください

 柳瀬結子のそばで立ち止まった僕を、その隣に座っていた黒尾が見上げていた。

 黒尾は怒りを露わにするでもなく、僕の幼稚な行動を嘲るのでもなく、不振が続き、またもや不甲斐なく無駄にバットを降ってベンチに戻ってきたバッターを迎える監督のように、仄かな笑みだけを口元に浮かべて僕を見ていた。

「ご心配をかけました」
「一人でここまで来れたのか?」
「えっ?あ、はい」
「大したもんだ」

 僕は母親をないがしろにして餓死寸前まで追い込んでしまったときに、激しく黒尾に頬を張られたときのことを思い返していた。今回の僕のわがままな行動にも、きっと黒尾は腹を立てていると思っていたので、また手を挙げられるものと覚悟をしていた。だから、僕を包み込むかのように柔和に微笑む黒尾の態度に拍子抜けした。もしかしたら、かおりに激しく頬を張られたのを遠くから見ていて、僕がすでに罰を受けたと判断したのかもしれない。

「もう、子供ではありませんから」
「あぁ、そうなんだろうな。きっと」

 黒尾は物々しい海岸の光景とは似つかわしくない笑顔で遠くを見た。綿入り半纏を着ていたこともあり、それは手塩にかけて育てた弟子が立派な木彫を掘り上げたことを喜ぶ木工職人のようにも見えた。

 僕は柳瀬結子の傍らに膝を付き、俯いたままの彼女の顔を覗き込んだ。

 柳瀬結子の顔は血色を失い、土気色をしていた。その中で海水で傷めた眼球の充血が、図らずも彼女の命がそこにあることの確証となっていた。寒さのため、上の歯と下の歯がぶつかり合い、壊れてしまったメトロノームのようにカチカチといつまでも乾いた音を立てていた。

「ひとまず、濡れた服を脱ぎましょう」

 何故柳瀬結子が入水自殺を図ったのかを質す前に、そちらを優先すべきだと僕は思った。このままでは溺死は逃れたものの、低体温症に陥って絶命してしまう。

「オレたちがいくらそう言っても、ずっとこのままなんだよ。よほど、あの世に行きたいんだろうな」

 黒尾がいつもの調子で軽率にそう言ったので、僕の背後にいたかおりが「ちょっと!」と言って、黒尾を戒めた。黒尾はいたずらしたことを咎められた子供のように、小さく舌を出して、肩をすくめた。

「あなたがただしのあとを追っても、直は喜びませんよ」

 僕は風間教授との接見で辿り着いた直の孤独を思い返していた。

「それに、仮にあちら側に行ったとしても、もう直には追いつけないでしょうし」

 僕がそう言うと、柳瀬結子は震えながらゆっくりと顔を上げた。

「直は、マイアミでマナティーに出会ったことで、決して自分を見失ってはいなかったと思います」

 氷の仮面をかぶったような柳瀬結子の顔に表情はなかったが、僕の言葉に少し眉を動かしたので、耳を傾けてくれているのだとわかった。

「風間教授が言ったように、直は確かに人間を恨まないマナティーの無垢な心と向き合い、感動したと同時に狼狽もしたはず。必要以上に何かを奪うことをしないのが生き物の本当の姿で、その反対にあらゆるものから傲慢に奪い、他の者に与えようとしないのが人なのだと感じた直は、自分自身の無力さを悲観したんじゃないかと思うんです」

 生前の直がおもむろにダーウィンの言葉を語ったとき、直はすでに父親の浮気を柳瀬結子から打ち明けられていて、一人胸を痛めていたのだろう。やがて、父親が水商売の女と心中を図り、当人だけが絶命して女だけが生き残った事実を知らされたとき、直は父親も相手の女も野獣以下の生き物で、マナティーをはじめとする海洋生物への愛着を封印してその父親に追従してきた自分もその同類でしかないと、失望したのかもしれない。

「直は、野獣以下の生き物と成り下がり、汚れながら生きることと、無垢な心のまま死を選ぶ分岐点に立たされたとき、僕やあなたへの思いを断ち切って、後者を選んだんじゃないかな。そう思いませんか?」

 柳瀬結子はぼんやりと海を見つめていたが、しばらくすると僕の問いかけにゆっくりと頷いた。

「追いつけないとしても、直は決してあなたを突き放したんじゃないと思います。自分を取り巻く死の渦に、あなたを巻き込みたくないと思ったから、あなたを別な道へ押しやったんだと思います」

 僕がそう言うと、柳瀬結子は静かに涙を流した。温かい涙が頬を伝ったからか、感情を高ぶらせて血行を回復させたからか、柳瀬結子の頬にいくらかの血の気が蘇った。

「そんなの……」柳瀬結子の声は小刻みに震えていた。それが寒さによるものか、憤りによるものか、僕には区別がつかなかった。「そんなの、身勝手じゃない!」

「そうです。直は身勝手なやつです。ただ、身勝手なのは、決して直だけじゃない。あなたも僕も、身勝手な人間だ。過剰に狩り、それでも足りなければ貧しい者たちからも搾取する。そんな身勝手な生き物なんです。だから、精神をうんぬんするのは、ほとんど迷信なんです」
「ほぅ、まるで直のような口ぶりだな」

 僕は無意識のうちに、かつて直が教えてくれたダーウィンの言葉を引用していたことに、自ら驚いていた。その奥深い一説に、柳瀬結子ではなく黒尾が感心していた。

 それから僕は柳瀬結子の背に手を添え、彼女を介抱した。

「だから、つまずいても転んでも、純真を貫いて生きてください」
「寂しいよ……。寂しすぎるよ。だって、無理だもん。私が一人で生きていくなんて。なんで、自分だけ先に行っちゃったの」

 ほとんど手をつけられないままのホットケーキを挟んで向かい合ったレストランでも、暖房の効きすぎた水族館のカフェテリアでめ、柳瀬結子は毅然とした年上の女性であり続けた。しかし、今、僕の目の前にいる柳瀬結子は、一人の男を一途に愛し続けたただの女でしかなかった。

 少女のように駄々をこねた柳瀬結子が、顔を上げて僕を睨んだ。僕は泣き晴らしてすっかり血色を取り戻したその気丈な顔を見て、美しいと思った。人間が足を踏み入れることができない高山に咲く花や、人間が到底たどり着けない彼方で輝く星が美しいのと同じだ。

 僕はその瞳に吸い寄せられるように、柳瀬結子の身体を引き寄せ、抱きしめていた。

(ごめん)

 僕と柳瀬結子の傍らに落ちた影が、辛そうに言った。

「ごめん」

 それが僕の身体を媒体にして僕の口からこぼれた。

 柳瀬結子はその声の主が誰なのかすぐに察知し、僕にすがり付き、激しく泣いた。

「寂しいよぉ……。会いたいよぉ……」

(ごめん……。ごめん……)

 僕の影も、かすかに声が震えていた。そんな人間らしい感情を露わにした彼の声を、僕は初めて聞いた気がする。

「ごめん……。ごめん……」

 僕は改めて柳瀬結子を強く抱きしめ、いつまでも僕の影と一緒になって、誤り続けた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(66)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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