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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(56)

〈前回のあらすじ〉
 日付が変わる前の深夜に目覚めたまことは、空腹を抱えて民宿の食堂を覗いた。するとそこには夕刻に自転車で走っていた手足の長い女の子がいて、鍋焼きうどんを食べていた。諒が食べるものを探していると、女の子がテキパキと作り置きの料理を温めてくれた。食事を済ませた諒は、シャワーを浴びながらかおりを思い浮かべ、マスターベーションをした。そして、翌日にT大に行って、ただしの足跡を見つけても見つけられなくても、諒はかおりに謝るつもりでいた。

56・きっとお兄さんは、逸見くんがここへ来ることを予測していたんじゃないかしら

 直が通っていた大学は、全国津々浦々に様々な学部と校舎を持っている大きくて伝統のある大学だった。T大学のその名は、駅伝や大学対抗の様々なスポーツの場でも、よく耳にした。

 目覚めると、すでに窓の外は仄かに明るかった。スマートフォンを開くと、その画面に六時三十分と表示されていた。僕は布団から抜け出し、着ているものはそのままで、ジーンズと靴下だけ改めて身につけて、階下に降りた。食堂に入ると、すでに女主人が調理場で忙しそうに働いていた。おそらく、下宿人の朝食の片付けをしていたのだろう。

「おはようございます」
「あら、おはよう。早いのね」

 そう言って、女主人は僕を振り返って、にこりと微笑んだ。その口ぶりと仕草に、僕は優しい既視感を感じていた。

昨夜ゆうべ、やっぱり食事をしたのね?そこのインターフォンで呼び出してくれれば、支度したのに」
「起きたのがだいぶ遅かったので、呼び出すのが申し訳なくて。それに、先に食事をしていた女の子が、料理を温めたり、ご飯をよそってくれました」
「加奈子ね。あの子ったら、あんなに細い体なのに、食い気は男勝りなのよね。まぁ、部活動でカロリーを消費するから太りはしないと思うけど」
「陸上部なのですか?」

 僕は昨夜見た彼女の後ろ姿を思い浮かべながら、そう言った。

「そうよ。走り高跳びの選手なの。どうしてわかったの?」
「昨日着ていたジャージに『TRACK CLUB』と書いてあったので」

 僕がそう言うと、女主人が感心して大きく何度も頷いた。

「あぁ、あれ。陸上部って意味だったのね」

 女主人は自分の無知さに呆れて、ケタケタと少女のように笑った。

「下宿をしている方なのですか?」
「うちの娘よ」

 女主人は僕のために鮭の切り身を焼きながら、その隣のレンジで玉子焼きを焼いていた。いくつもの作業をこなしながら、女主人は僕との会話も疎かにしていなかった。

「まぁ、T大に通いながらアルバイトをして、うちに下宿代を納めているのだから、下宿人に違いはないんだけどね」

 女主人はそう言って、四角い玉子焼き用のフライパンを器用に振り上げた。黄色く艷やかに焼かれた玉子焼きが、まるで自分の意志を持ったように、フライパンの中でくるりと転がった。

 ほどなくして食卓に漆塗りのお盆に乗った朝食が差し出された。母親との二人暮しになってから、一人でパンを牛乳で流し込むだけの朝食しか経験してこなかったから、こうして家庭的な朝食を目の前にすると、父親も直も健在で、母親もまだ自律を失っていなかった頃の朝食を思い出さずにいられなかった。

 手際よく調理器具を片付けてしまうと、女主人はカウンターの端にあるラジカセの電源を入れて、そこに入ったままのCDを再生した。すると、食堂に緩やかなクラシックが流れた。

「耳障りなら、テレビをつけるけど?」
「いいえ、この音楽で構いません」
「そう?ま、私の趣味じゃないんだけどね」

 女主人はそんなふうに照れてみせた。すると、加奈子という名の昨夜の女の子が愛聴しているのかと、僕は思い耽った。

「T大は、兄の母校なんです。でも、昨年突然亡くなってしまって、僕はT大まで彼の足跡を探しに来たんです」
「それは、残念なことだったわね」
 
 女主人が、自分のことのように辛そうな顔をした。

「現在、兄を知っている人がいるかどうかもわかりませんし、いたとしても兄がなぜ海洋生物に没頭したのか知っているとも限りません」
「どちらかというと、期待は薄いってわけね」
「はい」

 女主人はラジカセの音量を少しだけ落とした。

「でも、逸見くんの気が済むようにしたらいいよ。せっかくここまではるばる来たんだし、むしろ中途半端のままにしたら、なんだかお兄さんに失礼な気がするよ」
「やはり、そう思いますか?」
「えぇ、きっとお兄さんは、逸見くんがここへ来ることを予測していたんじゃないかしら。そして、これからここで何かを見つけることも」

 カウンターに肩肘をついて堂々と話す女主人の姿は、やはり加奈子という自転車の彼女によく似ていた。彼女ほど背は高くなかったが、スウェットパーカーを着た女主人は華奢で、手足が長かった。食堂に入ったときに感じた既視感は、おそらく女主人と加奈子を重ねたからだろう。

「明日も明後日も、決して予約が入っているわけじゃないの。連泊だったら宿泊代も安くできるし、じっくりお兄さんの足跡を辿ったらいいわ」

 そう言って、女主人は鼻柱に皺を寄せて、愛嬌のある笑顔を見せた。その笑顔はしっかりと娘にも受け継がれていた。

 それから僕は部屋で直のM65を羽織り、マフラーを首に巻いて、財布とスマートフォンだけを持って、民宿を出た。その時、勝手口を覗いてみたが、そこに加奈子のロードバイクはなかった。

 加奈子は大学まで自転車で通っていたが、決して歩けない距離ではないと女主人が教えてくれた。そもそも僕は、初めて訪れた清水の美保という地区を散策してみたかったので、歩くことに何ら不満はなかった。

 気温は低かったが、朝の日差しが存分に降り注ぎ、陽を受けた僕の頬は、暖かかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(57)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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