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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(66)

〈前回のあらすじ〉
 諒は膝を抱えて蹲る柳瀬結子のそばに膝をつき、直が柳瀬結子を突き放したわけではないことを語った。そして、つまずいても転んでも純真を守って生きていってほしいと、願った。すると、諒を媒体にした直が、愛しい恋人を一人にしてしまったことを心から謝った。

66・わたしは、大丈夫

 そのとき、僕の足元が沈んだ。

 僕はそこに大きな落とし穴があるのかと恐れ、抱いていた柳瀬結子を庇うように砂浜の上に、転がった。しかし、そこには穴も地割れもなく、ただ白い砂があるだけだった。

 振り返ると、僕の背後にいたかおりも、腰が砕けるように砂浜に倒れていた。海岸で見分を続けていた警察官の一団も騒然となり、様々な道具を雑に片付けて、波打ち際から松林の方へ逃げてきた。

 やがて海岸に設置された防災サイレンがけたたましく鳴り、それは小さな半島一体に響き渡った。恐らく僕の足元が沈んだように感じられたのは大きな地震で、鳴り響くサイレンはそれに伴う津波の警報だったのだろう。

「あなたたちっ!」

 そう叫びながら、松林の中から和服姿の女性が駆けてきた。黒尾が宿泊している旅館の女将だろうその人は、下駄を履いていたのでとても走りにくそうだった。しかし、そのぎこちなさが余計に切迫感を増長させていた。

「震源地は、三陸沖だって!」

 息を切らせて僕らのもとにたどり着いた女将のその一言で、僕らは身を凍らせた。

 僕は即座に母親の安否を心配した。

 一人で買い物にも出られない母親は、心細く仏壇の前で震えているに違いなかった。そして、次に水族館にいる竹さんとマナティーのことを思った。遠く離れた静岡県の海岸でさえ立っていられないような揺れだったのだ。震源地近くでは、相当の揺れだったに違いない。僕の家やかおりの家、水族館や敬光学園、黒尾の会社などにどれだけの被害があったのか、火災や水害に見舞われていないか、一つのことを考え始めると次から次へと不安が湧き出し、僕はいても立ってもいられなかった。

 柳瀬結子とともに慎重に立ち上がり、背後のかおりを見ると、黒尾に抱え起こされたかおりが、僕を見た。その瞳には僕と同じ不安が映し出されていた。かおりも唯一残された肉親である父親を案じていた。それと同時に、やはり竹さんとマナティーのことも気にかけていた。

「行くぞっ!」

 黒尾がかおりの肩を抱いたまま、僕に向かって強く叫んだ。僕は黒尾の叫びの意味を、即座に理解した。

 僕らはこれから福島に戻る。戻らなければいけないのだと。

「女将!この女性の面倒を頼みたい。濡れた服を脱がして、熱い風呂に入れてやってくれ。着替えが必要なら、適当に買ってオレに請求してくれ。宿代もオレが持つ。彼女が落ち着きを取り戻すまで、置いてやってくれ。ただ、くれぐれもまた海に身を投げることがないように、見張っていてくれよ!」

 黒尾はいつもの機転が利くビジネスマンに戻って、瞬時に的確な指示を女将に投げかけた。

「はいよ!」

 女将は遠慮のない黒尾の依頼を二つ返事で快諾した。こうした短期間での信頼関係の構築は、黒尾の得意とするところだった。

「わたしは、大丈夫」

 僕の腕の中で柳瀬結子はそう囁いた。泣き止んだことで体温が再び低下し、いよいよその瞳もうつろになってきた。

「あなたは、生きてください。生きるべきなんだ」

 そう言って、僕は柳瀬結子の頼りない身体を旅館の女将に預けた。その様子を見ていた警察官が慌てて駆け寄り、彼女の介抱に手を貸してくれた。

 黒尾はすでにワンボックスカーを取りに、旅館へ走っていた。かおりも客室に置いてあった自分たちの荷物をまとめるために、黒尾の後を追っていた。

 サイレンは三月の空を引き裂くように、いつまでも鳴り続けていた。

「ありがとう」

 柳瀬結子が小さな手を僕に差し伸べた。僕はその白く冷たい手をとって、強く握った。

 僕は柳瀬結子の瞳を見つめたまま、ゆっくりと後ずさりをした。やがて、互いの手が伸びきり、握っていた手が解かれた。僕の指がスローモーションのように彼女の手首や手のひらを撫で、彼女の細い指と僕の指が離れたとき、僕は踵を返して松林に向かって駆け出した。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(67)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。


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