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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(62)

〈前回のあらすじ〉
 しばらくすると、研究室に来訪者があった。風間教授が迎え入れると、それは研究室でアルバイトをしている加奈子だった。それから、まことただしが福島の水族館でアルバイトをしたことを風間教授に告げた。すると、風間教授が直に対してずっと抱き続けていたわだかまりを、解いた。そのわだかまりとは、直がマナティーへの愛情を失ってしまったのではないかという不信感だった。

62・あえて言うなら、『摂理』なんじゃないかな

 風間教授の研究室を辞して、僕は校舎を出た。事務室の前を横切ったとき、佐伯さんと目が合ったが、僕らはただ互いに小さな会釈をしただけで、言葉は交わさなかった。

 直が一人で答えのない問題を抱え続け、迷い、やがて彼なりの決断に至った。その孤独な自問自答を思うと、僕は自分の無知と無力を恨まざるを得なかった。

 故郷から離れた清水に暮らし、海洋生物学に没頭していた頃の直と同じような年齢になって、ようやく僕が抱えていた様々な疑問が解明された。しかし、今となっては、闇の中で孤軍奮闘していたあの頃の直に手を差し伸べることができなかった。それが虚しくて、歯痒くて、僕は佐伯さんに直のことを「忘れないでください」などと願ったことが、自分の腹の底に潜んでいた傲慢のように思えて、彼女に何も声をかけられなかったのだ。佐伯さんもそんな僕の内省を感じ取ったのかもしれない。

 校舎から校門に続く長いアプローチを歩いていると、その先の門柱にもたれ、海風で運ばれた溜まった足元の砂をつま先で弄んでいる女の子を見つけた。長身で細地のその女の子が、加奈子であることは一目瞭然だった。

 加奈子はウインドブレーカーのジッパーを首元まで引き上げ、その上からフリースのネックウォーマーを被っていた。長い髪は束ねられ、ネックウォーマーに干渉しないように二つ折りにし、頭頂あたりで無造作に結んであった。スリムジーンズの裾から覗くくるぶしが靴下に覆われていなかったので、少し寒そうに見えた。

「誰かと、待ち合わせかい?」

 僕はM65のポケットに両手を突っ込んだまま、加奈子に向かって歩きながら、そう言った。

「そういうわけじゃないけど」

 僕の声に気付いて顔を上げた加奈子が、つま先で弄んでいた砂を蹴りながら、口ごもった。

「じゃないけど?」

 加奈子が立っている少し手前で立ち止まり、僕が加奈子の言葉尻を繰り返すと、加奈子は僕にしかめっ面を向けて、自分と同じように門柱に立て掛けていたロードバイクを引いて、歩き出した。

 加奈子が足を向けたのは民宿に向かう方角ではあったが、車道ではなく、それと並行して松林を貫く遊歩道だった。僕が風間教授との接見まで時間を潰すため、海洋科学博物館まで歩いた道だ。理由はわからなかったが、僕は加奈子が僕のことを待っていてくれたのだと察し、その肉付きの乏しい背中についていった。

 遊歩道は舗装はされていないものの、長い時間をかけて踏み固められていて、歩くのに不自由はなかった。短い丈のくさむらと歩道の境には、枯れて落ちた松葉が堆積していた。加奈子に追いつき、並んで歩くと、遊歩道の細くなった場所で、僕は何度も松葉の山を踏んだ。いつか降った雨の名残を含んでいたのか、その松葉の山はとても柔らかかった。

 僕が加奈子に追いつき、影踏みのように、足元の松葉に気を取られていると、ロードバイクを引きながら正面を見据えて、不意に加奈子が呟いた。

「わたしの父親も、自殺をしたの」

 折りたたみナイフを慎重に畳もうとしていたのに、うっかりその刃先で指の皮を破ってしまったような痛みが、僕を襲った。

「なんで、そんなことを僕に話すんだ?」

 風間研究室で加奈子に遭遇したとき、確かに直のことをかいつまんで加奈子に語ったが、直が自殺したことは伏せておいたはずだ。

「ごめん。事務員の佐伯さんから無理やり教えてもらったの。逸見くんのお兄さんが亡くなった理由……」

 僕はその名を聞いて、考えごとをするたびにボールペンの尻を噛む事務員を思い返した。校舎を出るとき、佐伯さんが僕に声をかけてこなかったのは、僕の内情を漏らしてしまった後ろめたい気持ちがあったからなんだと、合点がいった。

「佐伯さんは、逸見くんの個人的なことだから断じて教えられないと拒んたのよ。でも、わざわざ福島からお兄さんがいた大学まで来て、風間教授から話を聞くなんて、よほどの使命感があったんじゃないかと思って、私が佐伯さんにしつこく尋ねたの」
「かまわないよ。いずれにしても、民宿に戻ったら、僕は君に話すつもりでいたし」

 僕は僕の内情を口外してしまった佐伯さんを庇うつもりでそう言ったが、決して取り繕ったわけではなく、本当に加奈子には話すつもりでいた。

「ほんと?」
「あぁ、今朝出かけるとき、お母さんにも打ち明けてきたんだよ。たぶん、今日のうちに自分の兄が自殺に至る理由を知ることになるだろう覚悟を決めるために、誰かに背中を押してもらいたかったんだと思う。そんなとき、気っ風のいい君のお母さんなら、適任だと思ったのかもしれない」
「それは見事な洞察ね」
「気っ風の良さでは、君も負けていないと思うよ」

 僕がそう言うと、加奈子は嬉しさと苦々しさが混じった、奇妙な笑顔を見せた。母親に似ていることは誇らしかったのだろうが、気っ風の良さを粗雑さと履き違えられているのではないかと不安になったのかもしれない。

 松林を歩いていると、木々の隙間から時折陽光が差し込んだ。低い日差しは松の枝に遮られず、じかに僕らの横顔を照りつけた。その時だけ、僕らの右頬が暖かくなった。

「付け加えて言うならね……」僕は、足元の松葉や木の根を見下ろしながら、独り言のように言った。「僕の父親も自ら死を選んだんだ」

 それを聞いた加奈子は、口の形は「えっ」と言っていたのに、そこから声が零れてくることはなかった。それは本人も自覚していなかったことだろう。

「そんなことって……」

 しばらくして、ようやく加奈子は声を出すことができたが、それを言うのが精一杯だった。

「先に父親が見ず知らずの女性と心中を図って、死んだ。生憎……、というのも変だが、心中の相手は生きながらえた。それから一年後、今度は僕の兄が死んだ」
「直さんね」

 加奈子は僕の兄の名も、佐伯さんから聞いていたようだ。

「そう。彼はいろいろなことを一人で抱えたまま、てるてる坊主のように軒にぶら下がっていたよ」
「見つけたのは……?」
「僕だ」

 自分の父親が自殺で先立ったことで、恐らく加奈子は心の歪みを正せないまま生きてきたのだろう。そこに、ただの季節はずれの宿泊客だと思っていた僕が背負っているものを見出し、何かしらの救いを求めてきたのではないだろうか。

「とはいってもね、その頃の僕はまだ高校を出たばかりで、誰かの死に特別な感慨を持てるほどの器量がなかったんだよ。こうして、兄が悩める時期を過ごした場所に辿り着くまで、随分と時間をかけてしまった」

 僕がそう言うと、加奈子は不意に立ち止まり、俯いたまま立ち尽くしていた。彼女は左手でロードバイクを保持していたが、もしもそれがなかったら、彼女はそのまま崩れ落ちてしまいそうに見えた。

 僕は、加奈子が立っているところまで数歩引き返した。近づいてみると、俯いた彼女が唇を噛んでいるのがわかった。

「わたしは、今もずっとよ」

 加奈子の声が震えていた。

「お父さんが死んだのは、私が小学生のとき。そのときはお父さんは病気で死んだと聞かされていた。でも、中学から高校に上がるとき、信頼していた友人に裏切られ、大きな借金を背負ってしまったことを苦にして死んだのだと、お母さんから告白された。それから、ずっと時が止まっているみたい」

 そこまで一気に語ると、加奈子は平泳ぎを覚えたばかりの子供のように、全身で息継ぎをした。

「実は、あの家も今は私たちのものじゃないのよ。抵当に入っていたものの買い手がつかなかった家を民宿や下宿に改装して、お父さんの死亡保険金で払いきれなかった借金を今も返し続けている。お母さんはああやって気丈に振る舞っているけど、現状から逃げたくても逃げられないから、そうするしかないんだよね。まるで、人生に負けたお父さんの呪縛に囚われているみたい」

 加奈子は今でも自分につきまとう貧乏神を振り払うように語った。

「呪縛かぁ……」

 自分でも意外に思ったが、僕は自分にまとわりつく死の誘惑を、呪縛と考えたことがなかった。しかし、加奈子の告白を受けて、僕も見えない何かに縛られて生きてきたのではないかと、感じた。

 僕は直の苦悩を知らないまま、彼を旅立たせてしまい、その苦悩に寄り添うこともできずに、引きこもりのような無為な日々を送ってきてしまった。ただ振り返れば、そうした日々を僕は主に直の部屋で過ごした。そうしようと自発的に決めたわけでもなく、気がつげは僕は何かに引き寄せられるように直の部屋にいた。

 憧れだった兄の残像を追い求めていたのかもしれないし、直の屍を見つけてしまった事実が未だに幻想だったのではなかったのかと検証を続けていたのかもしれない。でも、加奈子の告白から、僕は直が残した部屋の中から、これから僕が生きていくための、言い換えれば僕が父親や直のように死の誘惑に負けないためのヒントを探すという命題を、直から差し出されていたのではないかと気づいた。それが僕にとっての呪縛だったのだろう。

 殺風景な直の部屋からはなかなかそうしたヒントを探し出せなかったが、柳瀬結子からジンベイザメが表紙になった青い本が届いたり、我が家に直の友人だと自称する男が現れたり、ポーカーで自分が思いもやらなかった札を配られたような僥倖を得た。しかし、それも用意周到な直という人間が僕のために蒔いた種だったのではないかと思う。道標のない曲がりくねった道に、然るべきときに芽吹く種。

 直を失ってから一年で僕はこれほど右往左往し、自分の愚かさを省みてきたのだから、父親の自殺の事実を小学生のときから隠蔽され、高校生のときに真実を知らされた加奈子の苦悩は、相当辛いものだっただろう。同様に、真実を一人で隠し続け、加奈子が高校に上がるときに決意を持ってその真実を打ち明けた女主人の心労も測りしれなかった。

「この世と決別しようとしている人の気持ちなど、まだ生きている僕らにわかるはずがない。負けたから死ぬ、死んだから人生の落伍者になるという、短絡的なことでもない。彼らは、高くて冷たい壁に挟まれた先細りの狭い道の先頭を進んでいて、途中からその道の先は人が通れないほどの幅になっていることに気づいて、引き返そうとするのだけど、先が死の淵だと知らない人たちに押し返され、壁と壁に挟まれ、潰され、雨垂れが葉の先からポトリと落ちるように、奈落に落ちていったのだと僕は思う。仕方ないという言い方はしたくない。あえて言うなら、『摂理』なんじゃないかと思うんだ」
「摂理?」
「初めから彼らの死が定められていたような言い方は君にとって受け入れがたいとは思う。でも、僕は父親や直の死をきっかけに、様々な傷みや悲しみを背負う人たちに出会った。そして、兄が遺した遺産を探し当て、今、ここにいる。更に言うなら、似たような呪縛に囚われている君とも出会った。そう振り返ると、僕は来るべくして、この地に来たのだと思えるんだ」

 生という光がある限り、死という影はどこに行こうと僕らから離れない。肉親の死に直面した僕と加奈子は、その影と折り合いをつけながら、光ある方へ歩んでいくしかなかった。そのことは、かおりや竹さんが身を持って僕に教えてくれた。

 僕らは、先立っていった人の足跡を絶やさず、どんな形であれ、彼らが残した目に見えない遺産を引き継いでいかなければならない。それが、本当の意味での弔いになるのだと僕は痛感した。

「お兄さんは、たくさんのお金を遺したの?」
 
 加奈子が不思議そうな顔で僕に尋ねた。

「あぁ」僕は満面の笑みで答えた。「五万円。それも、旅行券でね」
「五万円!?」

 その金額に、加奈子は目を丸くして呆れた。

「僕にとっては、百億円に匹敵する遺産だよ」

 吹き溜まりでくるくると舞うばかりの木の葉のように行き場を失った加奈子も、やがて僕のように見つけるだろう。先立った父親の遺産を。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(63)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。




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