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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(68)

〈前回のあらすじ〉
 福島に引き返す前に民宿に寄らなかったのは、父親への愛慕を蘇らせた加奈子と別れ難くなると思われたからだ。復路を進むのは一筋縄ではいかず、三陸を襲った津波の情報や不明瞭な福島の原発の状況に諒たちは気を揉んだ。そしてなんとかその日のうちに群馬県まで戻ることができた。

68・水蒸気爆発

 僕は大きな揺れに驚いて、目覚めた。再び地震が襲ってきたのがと慌てたのだが、それは地震ではなく黒尾のワンボックスカーが道なき道をゆく揺れだった。やけに身体が軽いと思ったら、僕の身体にもたれていたかおりはすでに起きていて、助手席に座っていた。

「出かけるなら、起こしてくれればいいじゃないですか」

 自分だけ寝坊をしたような体裁の悪さを誤魔化すために口を尖らせては見たものの、運転免許を持たない僕は当面大した役に立たないのだから起こす必要もなかったのだと納得した。

「気持ち良さそうに眠っていたからさ」

 黒尾がはバックミラー越しに微笑んでいた。

「そう。ちっちゃく丸まって、なんだか猫の赤ちゃんみたいだった」

 かおりは少しだけ後ろを振り向いて、愛おしい赤ん坊を見つめる母親のように言った。

 僕は照れくさくなって、キャプテンシートのリクライニングを起こしながら、姿勢を正した。

 その時、M65のポケットの中で、何かの金属が擦れ合う音がした。手を差し込み、その中にあったものを取り出してみると、手のひらの上には民宿の部屋の鍵があった。

(先に帰るね)

 それが加奈子の最後の言葉だった。もしかしたら加奈子は、恋人との再会を果たした僕が民宿に戻ったら、加奈子なりに見定めた生きるための指針のようなものを僕に告げようと思っていたのかもしれない。

 突然飛び込みでやってきた同年代の客が自殺した兄の足跡を辿っていることを知った加奈子は、自分の父親も借金を苦に自殺をしたことを告白した。恐らく加奈子は自分の父親が自殺したことをずっと後ろめたく思い、その重圧を背負いながら今まで生きてきたのだと思う。僕が父親や直の自殺を恨んできたように。

 そして、自分と同じような境遇の僕と出会ったことで、ようやく加奈子は心の中に溜まった澱を吐き出すことができるのだと、安心したのだと思う。僕は一時は民宿に戻り、加奈子と彼女の父親について語り合うべきだったのべきだとも悩んだ。だけど、そうすれば僕も父親や直を喪失した痛みを再確認することになり、加奈子と互いの傷を癒やし合うようなぬるま湯から抜け出せなくなると感じたのだった。だから、民宿には寄らずに福島へ向かった。

 一先ず福島に辿り着き、母親や竹さんやマナティー、かおりの父親や黒尾の会社の従業員の安否を確認し、いくらかの落ち着きを得られたら、もう一度加奈子に電話をしようと思った。部屋の鍵も返さなければならなかったし、処分に困っているだろう僕の荷物も送り返してもらわなければならなかった。そして、改めて加奈子と話ができたのなら、彼女の中に芽生えた「兆し」について、尋ねてみたいと思った。

 僕は民宿の鍵を手のひらに載せたままゆっくりとそれを閉じ、再びポケットに入れた。そして、それと同時に長身で手足の長い加奈子の立ち姿もゆっくりと脳裏の奥に仕舞った。

 復路は黒尾の本能で目まぐるしく進路を変えるため、かおりがハンドルを握ることはなかった。

 ワンボックスカーは辺鄙な山道を進んでいて、前方には自衛隊の車両と救援物資を運ぶ車が等間隔に列を連ねていた。道の駅で足止めを食らった製パン会社の配達員がこのまま先へ進めなければ納品に間に合わないと判断し、積載していたパンを無償で配ってくれたので、僕らはそこで手に入れたジャムパンやたまごサンドを朝食替わりに頬張った。

「どうやらやっと栃木に入ったようだ。このまま順調に進めれば、今日のうちに福島に帰れるんだがな……」

 黒尾は暴れるハンドルをしっかりと操りながら、暗い面持ちで語尾を濁した。僕らは福島に近づいている喜びも感じつつ、同時に無線から次々と届く被災の状況を耳にして、気持ちを重くしていた。

 岩手や宮城を襲った津波は、とにかく悲惨だった。建物の損壊や人的被害の規模は具体的にわからなかったものの、無線の声から伝わる尋常ではない切迫感だけでも、その惨劇が目に浮かんだ。

 震源地から離れていたとはいえ、福島も津波の被害を免れなかったのではないかと僕らは想像していた。そうなれば、山の中腹に建つ敬光学園は無事であったとしても、沿岸にある水族館や原発は大なり小なり被害を被ったのではないかと予測できた。そうとなれば、竹さんやマナティーの命にも危機が迫っていると考えられた。

 するとそのとき、無線から突如としてとてつもない叫び声が聞こえた。

「マジかよ!やべぇじゃん!」
「このまま福島に向かって大丈夫なのか?」
「即撤退だよ、撤退!」

 その声は今までの混乱とは明らかに違っていた。それらは混乱を超えて錯乱状態に陥っていた。僕もかおりも、その緊迫感に飲み込まれ、喉の乾きを覚えて生唾を飲み込んだ。

「爆発した……」

 黒尾がフロントグラスの一点を見つめて、憑依した悪霊に操られたように声を漏らした。

「爆発?まさか……」
「その、まさかだ。原発の建屋が、水蒸気爆発で吹っ飛んだ」

 僕には建屋というものも水蒸気爆発というものもわからなかったが、それらがわからなくとも福島の原発が地震と津波によって崩壊したことが明白に伝わった。そして、それが人や環境にとってあるまじき事態であることも。

「爆発って、放射能が漏れたってことじゃない!いいえ、漏れたどころじゃない。飛散よ」

 原発の安否を懸念していたかおりが錯乱に陥った。放射能の被害がどのようなものかは、今でも語り継がれている東欧の原発の事故を思い返せば、原発や放射能の実態に疎いかおりにでも予測できた。そういう僕の脳裏にも、人が住めなくなり荒廃した福島の光景が想像されていた。

 人間が金や利便を追い求めるあまり、原発という打出の小槌に隠された危険性をぼやけさせていた。人間は原発建設や運転で利益を生んだり、そこから生まれた電力に依存したりすることと、自然を破壊したり、被曝による人体への悪影響を引き換えにしてきた。それでも人間は、豊かさや便利さを求め続けた。東欧の小さな国で起こった痛ましい事故は対岸の火事でしかなく、原発は必要悪だと僕らは自らに刷り込んできた。

 そして、成れの果てがこれだ。

 黒尾は無線の通信はそのままにして、消してあったナビゲーションシステムを起動し、テレビ機能に切り替えた。すると各局のニュースがひっきりなしに原発の水蒸気爆発の瞬間を繰り返し放送していた。

「嘘でしょ?」

 小さな手で口を塞いで、かおりが呻いた。背後からかおりを見ると、心なしかその肩も震えていたように見えた。

 原子炉を覆った建物(どうやらこれを建屋というらしい)が吹き飛ぶ様子は、まるで特撮映画のジオラマのようだった。宇宙から飛来した怪獣が吐き出す謎の光線で、あらゆる建物が粉々になる光景を、僕は小さなテレビ画面の映像に重ねていた。

 やがて映像は新政府による会見に変わり、見慣れない顔の官房長官が原発周辺の住民避難を訴えていた。しかし、どれくらいの範囲の住民がどこへ避難するのかまでは具体的に決まっていなかった。

 果たして僕の母親は地震の被害を逃れられただろうか。そして、追い打ちをかけるように起こった原発の崩壊に巻き込まれていないだろうか。僕は母親の安否を気にかけ、鼓動を高鳴らせた。同時に水族館で働く竹さんやマナティーたちも無事であってほしいと願った。

「このまま、進んでいいのか?」

 運転席の黒尾が、僕とかおりのどちらにともなく尋ねた。だが、そう尋ねてきたものの、黒尾の意志に「引き返す」という選択肢がないことを僕もかおりも読み取っていた。

「もちろん」

 僕が迷わず答えた。すると助手席のかおりも唇を噛み締めて、頷いた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(69)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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