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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(63)

〈前回のあらすじ〉
 T大を出ると校門で加奈子が諒を待っていた。諒が福島からやってきた理由を事務員の佐伯から聞き出し、無関心でいられなくなったからだ。加奈子の父親も借金を苦にして自殺した。諒は死んだ人の気持ちなどわかるはずがないとは言いつつも、いつか加奈子が父親の遺産を見つけることを祈らずにはいられなかった。

63・僕の恋人

 やがて松林の遊歩道は、自動車が一台通れるほどの砂利道と直角に交差した。その道は、遊歩道と松林を挟んで、防波堤沿いの道路と、それと並行する半島の動脈のような二車線の道路を繋げていた。

 松林が少しひらけた砂利道の向こう側から、早春の陽光が差し込んでいた。僕はふと立ち止まり、その日差しに目を細めた。

 その先にはコンクリートの防波堤があり、その向こうに駿河湾が望めるはずだった。直の足跡を辿る旅は、もうここで終着したようなつもりでいたが、僕の心の奥ではまだやり残したことがあるような釈然としない思いが残っていた。

 光が差す反対側を見ると、僕と加奈子の影が砂利道に張り付いていた。僕は僕の影に向かって呟いた。  

(頭の中の檻から逃げた子羊たちをやっとのことで集めたが、一番やんちゃな一頭だけ僕の手をすり抜けて、いつまでも僕の脳内を駆け回っているような感じだ。これって、なんだろう?)

 すると影は言う。

(心の感じたままに動いてみろよ。もう、今のお前なら、それができるだろ?)
(これって、『兆し』?)
(それを信じるか信じないかは、お前次第だ)影はそう言って、真っ黒な顔をしていたくせになんだか小憎らしく笑った気がした。(研ぎ澄ませ!)

 僕はおもむろに砂利道を右に折れ、防波堤へと向かった。加奈子も従順な飼い犬のように、僕のあとをついてきた。

 防波堤に備えられた急勾配のコンクリートでできた階段を上ると、太陽に照らされた静かな海原が広がっていた。僕は息を大きく吸い込み、空を仰いだ。

 駿河湾の海原は同じ太平洋だというのに黒ずんだ福島の海とは違い、深い紺碧に満たされていた。隣の芝生が青く見えるだけなのだと思うが、僕はその海原に強い生命感を感じ、その生命感に抱かれて暮らしている加奈子を少し羨ましく思った。

 加奈子はロードバイクに施錠をして防波堤に立てかけると、僕に少し遅れてコンクリートの階段を上ってきた。そして、僕と同じように、海に向かって大きく深呼吸をすると、不意に小さな声を上げた。

「あれ、なんだろ?」

 僕は僕の背後の加奈子を振り返ってから、ゆっくりとその視線を追った。

 僕らが立っている防波堤の上から五六十メートルほど離れた先に、何人かの警察官が何かを見分していた。僕が風間教授と会っている間に、何かしらの事故もしくは事件が起こったようだった。

 まだ冷たい風が吹きつける砂浜で、紺色の制服姿の男たちが物々しく何かを見分している様子は、放られて着地したハンマーをめぐって厳密に記録を測定する審判団を思わせた。

 ほどなくして、その一団の一人が松林の方へ振り向き、何かを叫んでいた。その声は僕のいるところまで届かなかったが、その警察官の視線を追って松林へ目を向けると、そこには思いがけない人の姿があり、僕は言葉を失った。そこにいたのが厚木という街で別れたはずの黒尾とかおりだったからだ。

 二人は福島に戻らず、僕を追いかけて清水まで来ていたのだった。そのことに戸惑いと喜びを感じたのも束の間、その傍らに座り込んでいるもう一人を認識して、僕は動揺した。

 それは、柳瀬結子だった。柳瀬結子はどういうわけか黒尾のジャケットを肩にかけられたまま蹲っていた。黒尾は旅館から借りたと思しき半纏を羽織っていた。

 ほどなくすると、半纏の襟から冷たい風が入らないように背を丸めて腕組みをした黒尾が、防波堤の上で立ち尽くす僕らを見つけた。

 黒尾は傍らに蹲った柳瀬結子の脇にしゃがみ、彼女に向けて何かを耳打ちした。それを受けて柳瀬結子は顔を上げて、僕らを見た。しかし、それも束の間のことで、柳瀬結子は震えながら抱えた膝の間に顔をうずめて、再び深海に棲む貝のように塞ぎ込んでしまった。

 黒尾に寄り添うように立っていたかおりも黒尾の視線に気づき、僕らを見た。そして、黒尾に何か短い言葉をかけた。黒尾は上体をかがめて、かおりの顔を覗き込んだが、かおりが大きくかぶりを振ると、ゆっくりと頷いて上体を起こした。それからかおりは、僕らが立っている防波堤に向かって、ゆっくりと歩き出した。

「ねぇ、何か事件があったのよね?誰か、こっちに向かって歩いてくるよ」

 加奈子が少し怯えたような声でそう言いながら、僕の背中に張り付いた。

 二日前に自分を置き去りにして姿を消した男が、かおりとは対照的ともいえる長身で細身の女の子を伴っていることを、かおりはどう受け止めただろう。全く躊躇をせず、自決覚悟の歩兵よろしく、砂浜をしっかりと踏みしめて歩いてくるかおりを見下ろしながら、僕は何故かとても胸が熱くなった。

「向こうにいる男が、僕をここまで導いてくれた人で、こちらに向かってくる女の子が……」そこまで口にした僕の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。「僕の恋人だ」

 僕は勇ましく歩くかおりから目を離さないまま、背後の加奈子に言った。

 僕らが立っている防波堤の袂までやってきたかおりは、砂浜の上に立ち止まって僕らを見上げ、悲しいような、困ったような、おかしな表情を向けた。

 直がもうこの世にいないことを知って、人知れず福島を離れ、その足で風間教授に会った柳瀬結子が、黒尾やかおりと一緒にいる経緯を僕は理解できなかったが、その困惑を整理する前に、今にも壊れてしまいそうなくせにその素振りを決して見せないように努めているかおりを、僕は受け止めなければならなかった。

「先に、帰るね」

 僕とかおりとの間に通う様々な思いを読み取った加奈子は、一歩前に足を踏み出し、僕の隣でかおりに向かって深々とお辞儀をした。それを受けて、かおりも加奈子に向けて丁寧なお辞儀をしてみせた。

 防波堤から降りてロードバイクのワイヤーロックを解錠し、颯爽と松林の砂利道を走り抜けていく加奈子を見送ったあと、僕はかおりが立ち尽くす砂浜に降りた。

 かおりは対峙した僕をきつく睨んでいたが、僕はその視線からに逃げず、正面から受け止めた。

(もう、これ以上失ってはいけない)

 心の中の僕が囁いた。

(そうだ。お前はオレの過ちを繰り返してはならない)

 僕の影が言った。

「私たちを置き去りにして、新しい旅の道連れを見つけたってわけね。弥次さん」
「彼女は民宿の娘で、T大で研究室のアルバイトをしてるんだ。たまたま帰り道が一緒になっただけだよ」

 決して言い訳がましくなく、僕はありのままの真実を語った。それに対し、かおりは「ふぅん」と言っただけだった。

「電車なんか乗り慣れていないくせに、よくもここまで辿り着けたものね」
「駅員に尋ねながら、なんとかね」
「カッコつけて、旅行券まで置いてったりしてさ」
「子供じみた意地を張っただけだよ」
「あの旅行券で、私たちが福島に帰ると思った?」
「それも、あり得ると思った」

 そう僕が口にした矢先に、かおりが僕の頬を力いっぱい、張った。

「帰るわけないじゃない!」

 かおりはそう叫ぶと、僕の胸に飛び込んできた。そして、それを受け止めた僕の身体を力強く抱きしめた。僕も静かにかおりの肩に腕を回し、彼女を強く抱きしめた。かおりは僕の胸で声を上げて激しく泣いた。

「もう、どんなことがあっても離れないから」

 遠くからこちらを見ている黒尾とその足元で蹲ったままの柳瀬結子を眺めながらそう言い、僕は静かに涙を流した。

「うん」

 僕の腕の中のかおりが、涙声で返事をした。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(64)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

 

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