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ネコとの年月が私の歴史 (6)

Chapter 6 
No. 10&11:Tiger-Belle と Daisy

私は60年代に米国に出生し殆どを日本で育ち、再度渡米した時は単身で、その次に渡米した時は2匹の犬と8匹のネコが一緒だった。この大移動はこれまでの人生の中で窮地を逃れた経験の中でも最も大変だった。経済的に、精神的に、肉体的に、今でも笑い飛ばすことができない苦境の記憶だ。

さてニューヨークシティで数年を過ごした後、ニューヨークステイトと呼ばれるカントリーへ引っ越した。これも動物のため。

純白のターキッシュ・アンゴラのミルドレッドはどこかで事故に遭って帰って来なかったというよりは、家を去った可能性の方が高かった。彼女はいつも一人でいるのを好んだ。産まれた時から雑居の家庭で育ち、少しずつ自分のスペースが許される住居になっていくと、殆どの時間を外で過ごし、だんだんそれはエスカレートしていき、ある年の暖かい季節には一日で家に5分しかいなかった。

庭先のお気に入りのスポットで殆どの時間昼寝をし、一日一食で昼間に帰って来たかと思うとゴハンを5分で平らげ、他に用はないとばかりまた外へ戻る。夜も外で寝る。彼女は目立つしとにかくキレイなので、他に犬やネコがいない平和な場所を見つけて、よその家でゴハンを食べるようになったのかもしれない。その人も、彼女に飼われている家があると知りながらも、彼女が来るのでゴハンをあげていたのかもしれない。アメリカでは時々聞く話だ。そうしてそのうち、完全に帰って来なくなったのだった。彼女はミケティンの子でうちで産まれてうちで育ったけれども、一番人間とは距離を置くストイックなタイプだった。子猫時代から人間とは殆ど遊ばないし、必要がなければ関わらない。人間の膝に乗ることもなく、他の犬ともネコとも団子になったりしない。育った環境のみならず、ネコの特性や性格といったものは確実に存在する。私は人懐っこいネコだけでなくこのようなタイプも同じように好きだ。いろんな性格があるのがネコの魅力の一つでもある。

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↑ 貴重なツーショットのミルドレッドとココ

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↑ 家が面した道は砂利道で、ここに家がある者しか通らないプライベートロードだった。日によっては1時間に1台も車が通らないこともあるような環境で、レオン (右)はある時車に轢き逃げされてしまった(享年6歳)。

交通量が少ないと、却ってかっ飛ばすトラックの運転手がいる。しかしながらネコを外に出している以上、こういう危険は付いて回る。轢き逃げをした人間は大方察しはついたが、発見してくれたのもまた別の近所の人だった。


その3年後には更に緑深いニューイングランドへ移動する。時は同時多発テロが起きて、まだ空から煙が消えてない頃だった。
 この家では1エーカーの土地を最大限に利用して、フェンスを建てドッグランを作ったが、ネコはどんなに閉じ込めようとしてもどうやっても外へ行く。犬も時々脱走。ちょっと外にアクセスできるだけでは満足してくれないのだ。犬のしろみは特に、ドッグランを$$$$もかけて作った後も、やはり毎日人間と歩いて散歩へ行きたがった (;'∀')。

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↑ 元気で医者いらずだったチェリー(右)は、自由奔放で、トラウマ無しの良い生涯だったと思う。(享年13歳)

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↑  60エーカーの隣接した牧草地が臨める、チェリーの専属スポット


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↑  ココの一番の相棒は犬のしろみ。やはり動物にも種族を越えて相性があるようだ。子猫・子犬時代を一緒に育ったせいもあるが、ココはいつもしろみの寝ている犬小屋に自ら入って行き、隣に寝るのを好んだ。

おっとり穏やかで、ごはんやおやつから昼寝のスポットまで若いやんちゃなネコに譲るタイプ。(一方やんちゃな子猫は10歳になってもまだ子猫のつもり。)  みんなのセラピストとなっていたココも良い生涯だったと思う。(享年16歳)


ニューイングランドに引越して最初に訪れた大きなフリーマーケットで、家具を探しに行ったのが、子猫を2匹引き取ってしまったので、以来フリーマーケットには近寄らないようにした。

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高校生くらいの女の子が泣きながら子猫を抱えて歩いていた。私は子猫が怪我でもしてしまったのかと思い声をかけた。すると、今日中に子猫を誰かにもらってもらわなければ、アニマルコントロール(保健所のような所)に連れて行かなければならないと言う。私はその場で何も言わなかったが、だんだん気分が悪くなっていった。彼女の状況はよくわかる、おそらく親にそう言われたか何かだろう。私の心境は段々レスキューモードに入って行ったが、しかしながらそんな場面に出くわす度に引き取るわけにもいかない。

その想いと闘いながらブースを次々と物色し、本来の目的であった家具探しに専念しようとしていると、今度は親子で「子猫さしあげます(あるいは『もらってください』?)」らしいものに出くわしてしまった。その日は6月でもかなり寒く、ケージに入っていた3匹の子猫はブランケットの一枚もなく文字通り震えていたので、ついそこで立ち止まってしまった。

「やめとけ、やめとけ」という想いと闘いながらも、結局私は基本的にその寒さから解放するべく、そのうち2匹を引き取ってしまった。もう1匹もすぐにもらわれていた。

しかしこれは今までの引き取り、レスキューの中では最もまともなものだった。ケアをしていたのは10歳の女の子と母親で、ネコの世話は女の子が責任を持ってやっていることがよく見て取れた。何かを質問しても母親は娘に聞いてくれと言う。私もその頃はネコ歴数年にはなっていたので、女の子にいろいろな質問をしてみると、女の子は自分で完全に世話をしていないと知り得ないことをよく知っていて、とてもしっかりしていた。今まで出会った中で最も信頼できるネコの飼い主だった。彼女の家はこのように産まれてしまった地域の子猫を、里親が見つかるまで保護をしていて、常に10匹以上のケアをしているとのことだった。少しばかりのサポートを置き2匹を連れて帰った。

その前に出くわした女の子のことも気掛かりではあったが、その後はどこにもいなかった。もしもう一度会っていたら勢いで引き取ってしまっていたかもしれない。。運よく貰い手が見つかったものと思いたい。
そうしてまた我が家に子猫が増えた。ただしその頃には、ネコ#1のピートは他界してから3年ほど、#2のアンヘルも昇天してから7年経っていた。

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↑ 子猫がやってきた日。好奇心を隠せない犬のしろみと。

2匹の子猫は自然に恵まれ、犬猫の兄弟にも恵まれ、伸び伸びと育っていった。

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↑  木登りが大得意のタイガーベル

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↑ 冬はアイススケート。 (氷の上をわざわざ歩くのはなぜ。。?)


#3の麻呂はその1年前に腹膜炎(Pancreatitis)の闘病後亡くなり、#5(5匹の子猫のうちの1匹)のミルドレッドは、前述の通りある時から帰って来なくなった。

麻呂の兄弟のモカ(#4)と、ミケティンの子供のキュロ(#6)は、ニューイングランドに引越した最初の夏にいなくなった。それはある猛暑の夜のことだった。その地域はクーラーが要らない気候ではあるものの、年に数回猛暑が訪れることがある。そんなある日2匹共帰って来なかったので、無理もない、どこか涼める所を見つけたのだろうと思った。が、何日経っても戻らなかった。コヨーテにやられてしまった可能性も否めない。涼しい所を探していつもに比べ遠征してしまったのかもしれない。ちょうどその頃子猫がやってきたばかりで、私は正直かかりっきりになってもいたので、それが面白くなかったのかもしれないし、考えないというのは無理だが考えてもどうにもならない。ネコを外に出すならそういう可能性は覚悟しなければならない。なので絶対に外へ出さずに室内飼いを徹底する人の選択はある意味正しいと思う。私も都会では無論そうしていたし。私は多分自分自身が動物的で、太陽の下に身を置くことに多大な恩恵を感じる口なのだ。なのでお金があれば実現できるものとしてはキャティオ(CATIO)が望ましい。90%は目的を満たすと思う。でもネコに限ってはそれでも満足しないかも。。ネコは自分で行きたい所を探索することで元気を保つ、それがネイチャーなのだ。

そうしてその時点で新入りの子猫を含み、世帯はネコ5匹に落ち着いていた。

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この2匹の子猫は#10 と#11のタイガーベルとデイジーと命名され、デイジーは16年、ベルは先月他界するまでのほぼ19年を共に過ごすに至った。

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もしもサポートを戴いた際は、4匹のネコのゴハンやネコ砂などに使わせて頂きます。 心から、ありがとうございます