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映画助監督の仕事

20代の頃に4年間、記録映画を作る会社で働いていました。今から20年ほど前の話です。助手から始まり、助監督→監督も一度だけやりました。とりあえず一通りの流れは把握した感じ。監督としては卵から出たか出ないかくらいのヒヨッコぶりだったので、今回は助手から助監督としての仕事を書いていきます。

社員20人ほどの小さな会社。主に官公庁の仕事を請け負って、お金が貯まったら自主制作映画を創る会社でした。私はシナリオを書きたくて入社しましたが、小さい制作会社の宿命で、何もかもをやりました。運転からカメラアシスタント、照明、録音、ロケの段取り、スポンサーとのやり取りから許可関連の手配まで。ペンより重いものは持つつもりもなく入社したのに、重い三脚とデンスケと呼ばれる録音機、マイクとバッテリーなど総重量10キロ以上を担いで、毎日走り回っていました。話が違うって思いましたね。

入社した初日、勇んでパンツスーツにパンプスで出社した私でしたが、最初の仕事は蜘蛛の餌採りでした。織物の映画を撮っていて、イメージショットに蜘蛛の巣を撮影したい監督。山に行っても丁度いい巣がないので、蜘蛛を採ってきて編集室に放し、巣を張ってもらおうという作戦。女郎蜘蛛でした。毒蜘蛛です。そうして新入社員の私は、餌採り担当になったのでした。

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(イメージ画像:yahoo)

虫取り網を持って(何でもある映画会社のオフィス)公園に行き、バッタやトンボを採ってきました。虫を女郎蜘蛛にあげると、まず毒で餌を麻痺させ内部エキスを吸っていきます。グロテスクではあるものの、なかなか興味深い。虫嫌いの女子は、この部屋には入ってこれず。不人気エリアとなっていました。そして翌日からはスーツとパンプスをやめ、その後4年間ジーンズとスニーカーで働きました。

結局、蜘蛛は巣を張らず。壁の隅に落ち着き、数週間生きていたと思います。なんか部屋が臭くなるんですよねー。蜘蛛くさい(笑)。部屋で飼ってみるまで、蜘蛛に匂いがあるなんて知らなかったです。ある日、蜘蛛が死んで床に落ちていました。かわいそうでしたが、監督に報告した後、埋めました。翌日、壁に白い卵を見つけました。あの蜘蛛は雌で、卵を産んだ後に死んだのでしょう。卵は壁から外して、監督に進呈しました。鬼のパワハラ監督が「ありがとう」と受け取ってくれたのが印象深かったです。というか、あの卵!私が見つけて外に出さなかったら、オフィス内で毒蜘蛛千匹が舞ったわけですよね?おおお、恐ろしい。天敵もいないから、そこらじゅう生き生きとのさばり、成長したであろうわけで。ビルのオーナーから苦情もんだわ。まだ虫取りくらいしか役に立たない新人助手でしたが、今思うとグッジョブです。

そんな感じで、他の大卒友人たちとは大分違った仕事内容で奔走していた私。主なロケ地は工事現場でした。ダムや橋を作る過程を撮影し、映画にするのです。「完成した○○橋」とか「市民を守る△△ダム」などのタイトルで、市役所や国の役人さんの参照資料となるわけです。たまにはダムの資料室などで一般公開もされました。それにしても工事現場ですよ。男ばっかし。女は基本、私一人。トイレなんか悲惨で、男ばかり1000人いる現場に簡易トイレが3個、掃除は半年に一度みたいなやつばっかり。臭いというかもう、目に沁みます。アンモニアが、目にアタックしてきます。息とめ目閉じ、手探り(しかし何にも触りたくない)で用を足します。今でもトイレは水洗でそこそこ清潔なら、ものすごく感謝します。トイレ満足度のハードルが低いです。

現場にはカメラマンとカメアシ(アシスタント)、そして監督の3人で行くのが基本でした。しかし経費削減のため、演出助手の私がカメアシ担当で使われました。カメラの三脚は5キロくらいあったかな?プラスチックでできたものなら軽くて扱いやすいのですが、木でできた三脚があってですね。重くて肩にめり込むの。角張ってて痛いの。16ミリフィルムで撮っていましたが、すでにビデオに押されてフィルムカメラは懐古道具でした。周辺機器も前時代的。撮影していると、測量のお兄さん達が「木の三脚だ、珍し〜」って寄ってくるのね。うふふ、古くて良いでしょ?その他、デンスケと呼ばれるオープンリールで音を録る録音機器も担いでいました。大きさはMacBook Airくらい、重さは4キロくらい?後にテレビ局でも働いたのですが、最上階の展示室にデンスケが飾られていて「お前、こんなガラスケースに入れられて!ザ・引退じゃないの。こないだまで私に毎日、使われていたのに。」歴史的遺物として扱われていたのが、哀しかったです。その他、バッテリーライトを手に持ち、予備バッテリー、ビニールテープなどをウエストポーチに入れて、走り回っていました。屋内撮影の時は、これに設置ライトも加わるので、ホント鬼重かったです。

工事現場は釘とか針金とか、床穴とか、重い工具や重機がいっぱいの危険地帯です。若いから勢いでできましたが、今思うとすごい所で走り、怒鳴られ、撮影助手をしていたなーと思います。ヘルメットかぶって、ジーンズとスニーカー。メイクなんかしたところで汗が流します。日焼け止めを塗り直す暇も雰囲気もありません。男ばかりなので、日焼け止めなんてフェミニンでファンシーな行為は蔑視されるわけです。あるカメラマンが、とらこもたまには可愛い格好しなよーって言いましたが「は?ペンキがつくどころか、コンクリの飛沫が服につくのに?釘が引っかかって破れるのに?そんなに言うなら、お前が買ってくれ。」と言い返すくらい、いつしか慣れていきました。

フィルムなので、映像と音は別で撮ります。車道で工事という場面だと、車の走る音を適当に録って、後で画に合わせればいいのですが。人が話している場面など音と画をきっちり合わせたい時は、パルスというシステムを使いました。カメラとデンスケを専用コードで繋ぎ、撮影が始まると「ピー」という音がデンスケ側に録音されます。現像されたフィルムにはパルスの跡がつくので、それを録音されたピー音とピタリ合わせます。助手側からすると、面倒くさい作業です。音にこだわる監督だと、全てパルスで合わせたがる。カメラマンも、助手とコードで繋がるから自由に動けず嫌なのでしょう。この監督のことは「パルス教の教祖」と呼んでいました。お経の音は「ピー、ピー、ピー」です。絶対に入信しない!デジタル時代の今では信じられないような手間でした。

編集は手作業です。現像されたラッシュと呼ばれるポジを、ドイツ製のスタインベックという機械にセットして、ビューします。フィルムは左から右に流れます。

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(イメージ画像:yahoo)

そして専用のカッターで切り、テープで貼ります。涙が出るほどアナログです。

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(イメージ画像:yahoo)

スタインベックでラッシュを見るとき、回しながら色んな方法でフィリムを破ってしまい、たくさん怒られました。早送りしすぎて、勢い余って破れたり。コーヒーカップに引っかかって切れたり。破れたら正直に監督に言わねばなりません。たとえ1コマ、2コマでも黙ってこっそり繋ぐと、後でネガや音と合わなくなって困ります。謝ったら、専用のスプライシングテープで繋ぎます。ほぼセロテープ。編集は、カッターで切ってセロテで繋ぐ。この地味な作業の繰り返しです。

編集は監督の仕事で、助監督は音の整理が重要な仕事の一つでした。デンスケで録った音を、一つ一つ聞き取って番号を振っていきます。番号はテープに直接書きます。このようなペンを使って。

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20年前のものですが、なぜか捨てられずに持っています。懐かしい。

映像に合わせた音を探すのは助監督の仕事でした。およそ週150時間は働いていました。11月から4月までは休み無し。官公庁の仕事だと、4月に納品して5月にやっと休みが取れるのがルーティン。クリエイティブ系の中小企業が一番、ブラックなんじゃないかしら?ブラックな働き方でしたが、良い人もいたこと、面白い仕事もあった、そして我慢強かったのもあって4年勤めました。大概、2ヶ月で逃げ出すので、私はまぁまぁ保った方だと思います。

チームでモノを作る楽しさは味わえました。男も女もなく、協力し合って何かを作るってホントおもしろい。

人間国宝の方に会ったり、山羊の出産に立ちあったり、360度撮影できるカメラの動きを見たり、珍しい経験をしたと思います。これらの経験が、今後どう活かせるのか?謎ですが、少しでもシェアできたら幸いです。

映画の裏側といっても、あまりカッコよくない助監督時代の経験でした。



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