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ピノとお散歩シリーズ「踏切の少年」

その少年は毎日夕方になると、踏切で電車に向かって手を大きく振っていた。

木々の枝がすっかり寂しくなり、小道が茶色の枯葉で埋め尽くされるころになると、ボクは夕方のピノとの散歩の時間を、どんどん早くするしかなかった。朝の散歩は公園なのだが、夕方の散歩は公園とは逆の人気のない広々とした田園に行くことにしていたからだ。ボクの街は散歩するところに事欠かない。近くに公園が何か所もあり、ちょっと歩けば、見渡す限りの田園風景にも出会える。ただ田んぼに街灯があるわけもなく、夜になると月明かりだけが頼りの散歩になってしまうのだ。
愛犬家なら、朝夕のお散歩は欠かせない。だからお日様の空にいる時間が短くなると、短い夕方の間にお散歩しようとするワンちゃんたちに、たくさん出会うことになる。愛犬との散歩は大半が主婦かお年寄りなのだが、新型コロナのせいで在宅勤務が多くなったためか、最近は比較的若い男性が散歩していることが多い。ボクは暗くなる前に愛犬のピノとの散歩を終わらせるべく家を出る。その日は住宅街を抜けて広い田園にたどり着くまで、誰とも出会わなかった。

すっかり稲が刈り取られ閑散とした広い田んぼのあぜ道、あぜ道と言ってもこの辺りは舗装されているのだが、ピノとトコトコと歩いていると、なぜかジャズが聞こえてきた。何度も同じフレーズが繰り返されているので、練習しているようだ。近くに小型の車が停まっている。通りすがりに覗いてみると、狭い車内で身をかがめながら一心不乱に、男がサックスを吹いていた。なんでこんな所でサックスの練習をしているのだろうか。このご時世なので、あらゆるコンサートが中止となり、練習スタジオも閉鎖になっているために、大きな音がするサックスなどは誰もいない場所でしか練習ができなのかもしれない。

広大な田園を区切るように通っている線路の踏切まで、ピノと歩いていく。するといつものように、小学校の低学年くらいの男の子が踏切にいた。ちょうど踏切がカンカンと鳴りはじめ遮断機が下りてくる。少年は電車が来る方向に向かって、大きく元気よく両手を振り始めた。スマートな白い車体の特急電車だ。電車が踏切に近づくと、軽快な音の警笛が鳴り響き、ゴーゴーとうなりをあげて通り過ぎていく電車の窓からは、車掌が手を振っているのが見えた。
特急電車が通り過ぎて遮断機が上がる。せき止められていた車が踏切を渡っていく。ボクとピノもあわてて渡った。少年は特急電車を最後まで見送ると、満足したように走ってどこかに帰っていった。

踏切の反対側には、巨大なレンズの一眼レフを抱えた「撮り鉄」らしき男性がいた。この場所はどうも撮影ポイントのようで、時々このような男性を見かける。まあ富士山まで望める広い田園をバックに、お目当ての特急電車が撮れるからだろう。普段なら通り過ぎるのだが、300mmクラスの白レンズを三脚に取り付けていたので、話しかけてみることにした。
「いい写真が撮れましたか?」
「今確認しているんですが、まあ何枚かはあるはずです」
「最近の一眼レフならピントの自動追尾性能が高いから、昔のように置きピンで撮らなくても大丈夫のようですね」
「おや、よくご存じのようで」
「ところで、今手を振っていた少年をご存じですか?」
ボクは「鉄オタ」なら知っているかもしれないと思って聞いてみたのだ。
「あの少年なら、このあたりの鉄道ファンで最近話題になっていますよ。たしかお父さんが電車の運転手なんだけど、コロナにかかって闘病中と聞きました。あの子は会うことが出来ないお父さんの帰りを待って、学校帰りに毎日ここで電車に手を振って応援しているそうです。車掌さんたちも、毎日踏切で手を振る少年に気がついて、必ず警笛を鳴らすようにしているんだそうです」
「そうだったんですか。お父さん早く治るといいですね」

ボクは親切な鉄オタと別れ、おとなしく待っていたピノと歩き出す。ふと気がつくと、茜色に世界を染めながら、つるべ落としのお日様が去っていく。

「ピノとお散歩シリーズ」

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