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『なぜわたしが罪人なのか』

 いきなりの質問ですが、あなたは罪人でしょうか?
きっと、多くの人が「善人じゃないかもしれないけど、罪人じゃない」と思うんじゃないでしょうか。

少し古いですがスタジオジブリの「風の谷のナウシカ」という映画がありました。高度な文明を持った人間が争った結果、文明は滅んで大地は汚染されてしまいます。そこに汚染された毒素を取り込んで有害な植物がはびこり、腐海という毒素の強い森が広がっていき、残された人が住める場所をめぐってまた人が争うというのがバックグラウンドの話です。
そのなかで風の谷という街でナウシカが猛毒の植物をお城の地下で密かに育てているシーンがあります。

城の地下で育てられた猛毒の植物たち(スタジオジブリHPより)

街に毒素が広がることを恐れて驚く人に「大丈夫。毒は出してない…汚れているのは土なの…この谷(風の谷)の土でさえ…」と言います。実はきれいな土だと思っていた街のなかの土も汚染されていたのです。
有害だと思われていた植物は毒素を取り込んで成長しますがやがて死んで、長い時間をかけて石化、きれいな土に戻すという働きをしていたのです。深い井戸とともに引き上げられた土はきれいで植物は毒素を生まなかったのです。

私たちは人の住む社会を基準に正しさや罪を考えていますが、それは人の基準で相対的なものでしかないのです。
しかし、旧約聖書は徹底的に人の罪深さを教えています。それは神さまに近づく人が罪によって死ぬことがないようにという配慮でした。神さまの「清さ 」は完全で、神さまの前にはどんなに小さな「罪 」も同居することが出来なかったからです。
では神は私たちを「清さ 」ゆえに拒んでいるのでしょうか?

■出エジプト記33:3
わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。

旧約聖書の出エジプトの時代にイスラエルの人々が最初に神に大きな罪を犯してしまった時に神さまが語られた言葉です。
神さまはこれをどんな思いで語られたのかわかるでしょうか?

■イザヤ43:1~2
恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。

神さまは人を愛して共にいたいと願っているのです。
けれども、旧約聖書を読まれると神さまは厳しすぎると感じる人が多いのではないかと思います。はっきり言ってしまうと神さまと人との間には越えようのない壁が存在します。

でも、少し考えてみてください。ほかの宗教にこんなに厳しい神さまはいるでしょうか?
もっと人に近いのが神さまだという気がしませんか?

それは人間の願いだからです。
人間を中心とした都合のいい神さまです。それはナウシカの風の谷の土と同じです。神さまが人に与えた10の戒め(十戒)のひとつに「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(出エジプト20:4)(口語訳)という偶像を禁止した戒めがあります。都合のいい神さまを勝手につくることは罪に対しての絶対的な基準を動かしてしまうことだとわかると思います。同時に旧約聖書は人の都合によって書かれたものではなく、神さま中心で書かれているということにも気づかれるのではないでしょうか。

そこに聖書における神さまの真実性があるのです。
神さまを中心に考えたとしたら、「わたしは罪人ではない」と言える人はいないのです。


次回はその越えようのない壁の破壊についてお話しさせていただきます。

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