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ナイト・ストーリーズ 第6話「夜の皿」

 春の雨は好きだ。乾いた世界を潤してくれるから。
 抱えていた仕事がやっと一段落した夜、わたしは傘をさしトボトボと歩いて、行きつけの小さなバー『ナイト・ストーリーズ』に辿り着いた。
「いらっしゃい」
 須賀の声に迎えられ、黒猫のメナを撫で、カウンター席に腰かける。ジントニックをひと口飲むと、猛烈にお腹が空いてきた。
 バー飯(めし)という言葉があるらしい。バーで酒を飲むだけじゃなく、食事をも済ませるということだが、そんな造語で表現される前からわたしは年中『バー飯』をしている。
「まぁでも、空きっ腹でうちの店に来るのは和香ちゃんくらいだけどな」
 須賀がわたしの前にたらこパスタを置きながら言った。
 時刻は夜の十一時。こんな時間に食事をするなんて、わざわざデブになろうとしているようなものだが、日中ろくに食べず仕事をしていたのだからいいだろう。わたしはパスタにフォークを突っ込み、目を閉じて口に運んだ。
「美味しい。須賀さん、また腕が上がったんじゃない?」
「知ってると思うけど、それ、レトルトだぜ」
 二人で笑っていると、カウンターの端に座っていた初老の紳士から声がかかった。
「ずいぶん美味しそうに食べますね。見ているとこちらにもひとつ、って言いたくなりますよ」
 きれいな白髪で、ほっそりとした体つきだがひ弱そうではなく、上背がある感じだ。品のある風貌で、スーツ姿ではないが仕立ての良さそうなジャケットを羽織っている。それに、なんとなく眼に力があるような。わたしは初めて見る顔だが、須賀は知り合いみたいだった。
「いやぁ、藤橋(ふじはし)さんのお口には、とてもじゃないけど合わないですよ」
「そういうこと、みんなによく言われるけど……。俺自身はそんなに神経質なほうじゃないんだけどな」
(このおじさん、どういう人なのかな?)
 そう思ったけれど、都会の片隅には色んな人がいるのがお約束なので、わたしはいつも気にしないことにしている。
「良かったら少しいかがですか? 一食分、全部食べると太っちゃうから」
 わたしが冗談交じりでそう言うと、男は思ったよりもかなり積極的に食いついてきた。
「いいんですか? 美女と同じお皿のものを分け合って食べられるなんて、それだけで幸せですよ」
「ふふ、お上手ですね。ぜひどうぞ。わたしのダイエットに協力してください」
「わたしはお世辞なんか言いません、正直な気持ちですよ。あなたは痩せる必要なんかない。店に入って来られた瞬間からなんて綺麗な人なんだろうと思っていたんです。今日は銀座のクラブというところに連れていかれましたけど、わたしは作り込んだ美人にはあまり興味が無くてねえ。あなたを見てやっと、久しぶりに都会に出てきて良かったなぁと思いましたよ。普段は山の中にいるもんですからね……」
 言葉巧みに褒められて、わたしは目を丸くしてしまった。
「そんなことはないですよ、腰の辺りにも肉が付きすぎちゃってますし」
「いえ、その肉付きが良いのです」
 視線が体に絡みついてきた気がして、ちょっと緊張してしまった。でも嫌な気はしない。たぶんそういう目で見ているのに違いないのに、いやらしい感じがあまりないのだ。
(なんだか不思議な感じの人だなあ……)
 戸惑っていると、男はいきなり誘ってきた。
「ちょっと出ませんか? まだもう少し食べられるでしょう。わたしも今夜はあまり食べていなくてね、あなたと食事がしたい。須賀くん、タクシー呼んで貰えないかな?」
 それからのことはよくある展開で。タクシーで都心まで行き、
(なぜこんな夜中にやっているの?)
とつい不思議に思うくらい上品な日本料理屋で軽く食事をし、オーセンティックなバーでカクテルを飲んで、その間ずっと口説かれ続けた挙句、根負けして宿泊先のホテルまでついて行き、一夜を過ごしてしまったのだった。
 で……。ただでさえ疲れ切っていたわたしは熟睡しすぎてしまい、起きたときには昼近くで男はもういなかった。
 久々の大失態である。寝たことそのものはこちらもその気になったのだから良いのだが、男の隣でだらしなく寝過ごすなんてことはわたしの趣味ではないので普段はやらないのだ。
 してしまったことは仕方がない。フロントに電話すると料金は支払い済みだというので、シャワーを浴びると部屋を出た。
 目覚めて初めて、自分が名だたる高級ホテルにいることを知ったのだから、わたしもいい加減ぼんやりし過ぎていると思う。
 近所に飲みに行く恰好でこんなところまで来てしまったなんて恥ずかしい限りだ。それにしても、自分がどこで寝ているかわかっていなかったなんて昨夜は結構酔っていたのかもしれない。わたしはあやふやな記憶を抱えたまま、電車に揺られて帰った。

「こんばんは」
 入口に傘を置くと『ナイト・ストーリーズ』に入った。
その晩も雨だった。ひと雨ごとに世界がしっとりと収まっていくのがわかる。
「待ってたよ」
「ん。どうして?」
 あの日から一週間近く経っていた。深夜で、客は他にカップルがいるだけ。須賀はわたしの前に来た。メナを膝に乗せ、ジントニックを貰った。
「藤橋さんからこれが届いたんだ」
 須賀がカウンターの上に立派な桐箱を置いた。
「何これ」
「見てみたら」
 箱の蓋に手を掛けると、須賀から注意が入った。
「あ、丁寧に扱えよ。中、割れ物だから」
 わたしはそうっと蓋を開けた。緩衝材が入っている。それらを取り出すと、奥にお皿がひとつ入っていた。静かに持ち上げてカウンターに置いた。
「それ、パスタ皿だってさ。俺への手紙に書いてあった。和香ちゃんに渡してくれって」
 大振りで肉厚の陶器だった。外側は落ち着いた黒に近い茶色で、内側の中心にかけて濃い青色が深く変化していた。所々に白い点のような模様があり、それが深い青に映えて、まるで夜空に浮かぶ星のように見えた。
「綺麗ね。でもわたし家でほとんど料理しないからなぁ……」
「じゃ、飾っておけば」
「うちにはこういうものを飾る場所がないんだよねえ。それにしても、なんでお皿をくれたのかなぁ……」
(あの日のお礼ってことなのかな? だとしたらずいぶん丁寧な人だな……)
 そう思いながら皿を撫でていると、須賀が溜息をついた。
「なんか、思った通りのリアクションだな……」
「どういうこと?」
「和香ちゃん、焼き物とかに全く興味無いだろ」
「うん」
 実際そうなので、頷くしかない。
「これはさ、藤橋さんが作ったものだよ」
「へえ、陶芸をする人だったんだ」
「っていうか……。あの人、人間国宝だよ。死んだ親父の友達なんだ」
「え?」
 言葉に詰まってしまった。改めてお皿を眺める。
「それは……まずいよ、宝の持ち腐れになっちゃうよ。返したほうがいいんじゃないかな」
「それもまずいだろ……。身に覚えがあるんだろうしさ」
 それはそうだが、本当にいいのだろうか。わたしは困ってしまった。
「なら、せめてここに置いてくれない?」
 恐れ多くて、とてもじゃないけれど持って帰れそうにない。わたしがそう言うと、須賀は仕方なさそうに頷いた。
「じゃ、ここで和香ちゃんにパスタを出すためだけに使うよ。それなら藤橋さんにも顔が立つし。和香ちゃんの食べっぷりが良かったらしいよ」
 気持ちが落ち着いた。
「ありがとう。そういえば、藤橋さんって須賀さんのお父さんのお友達だったの? ってことは何歳くらいの人だったのかなあ」
「それは聞かないほうがいいと思うよ」
 須賀がクスクス笑った。
(また会うことがあったらお礼を言わなくちゃね)
 雨の音が柔らかく響いていた。
 皿を眺めていると、深く青い宇宙に吸い込まれてしまうような気がしてきて、ちょっとくらくらした。

                               

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