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諦めと慢心の間で 投影が気になる

最近少し気になっている話題がある。大きなくくりで言うと「防衛機制の話」だ。

防衛機制の存在を知ったのは高校生の時だった。倫理の授業で初めてこれを学び、少しだけ安心したのを覚えている。人間は私みたいな奴らの集まりなのだということ、今まで不健康だと思っていたものに名前がついていること。

つまるところ防衛機制というのは、人間が無意識に逃げる道なのだという解釈を私はしているが合っているのだろうか。
防衛機制と呼ばれるものはいろいろあるのだが、とりわけ気になっているものが「投影」である。

私は根っからのツイッタラー(笑)なので、そういう心理学をかじったようなツイート、ポストを目にすることがたまにある。投影も、そこで目にしたものだ。

まず、できればこの記事に飛んでみてほしい。

不思議なことである。「相手は自分のことを嫌っている」という考えをしていると信じていたのに、実は「自分は相手が嫌い」と思っているということらしい。

成長していくにつれて大人の不出来な部分を見つけ、ようやく無知からくる完璧主義から脱却し始めた私だが、この「投影」を学んだことにより、一気にそれが加速した。
大人を神格化しすぎている子供、大人はもはや別の生物みたいなもんだと思っている子供って結構多いのではないだろうか。そういう子供が倫理を学ぶと、びっくりしてしまうことが多いと思う。かつての私がそうだったように。

他にもこういった「子供がびっくり」みたいなことが、たまに授業で取り上げられているのを目にする。

今思いつくもので言うと、ニーチェがキリスト教の山上の垂訓を取り上げて意見したことが挙げられるのではないか。
ここでルサンチマンという言葉も合わせて知った。嫉妬などの邪念的な心象のことを言うらしく、他人のルサンチマンを見抜く、というか観察するといった行為を最近になってできるようになってきたため、またしてもしっくりきてしまった感がある。

当時倫理の授業でこの辺を扱った時は驚いたものだ。こう言う高校生、実は覚えていないだけで結構いると思う。

また防衛規制の話に戻るが、こういう人間の癖だなんだみたいなものも、自分を相対化することに役立つのだと思う。

相対化の話といえば、今日の友人との会話を思い出したのでここで共有しておきたい。

友人は朝から閉校まで学校に居続けるタイプのくせ、「まだ自分は努力が足りない」といっていた。しかし友人は家に帰ったら寝落ちしてしまったり、一人暮らしで金欠なのでご飯を抜いたりと、側から見れば明らかに心身ともに不健康な気がする。

私は、「寝落ちをしてしまう」という点を一種の指標として利用してみれば、自分のキャパはこれ以上ないこと、ここから先はいくつかを諦めなければならないのではないかという考えが浮かんだ。

水野しずの本を読んだ時に、人は生活を送る上で何かを諦めていかなければならないと書かれていた。そうだなあと思う。

しかしここで、私が未熟ゆえ問題が発生した。
諦めと慢心は似ているというところだ。私には結果が出るまで区別がつかない。まだそこのバランスの取り方を掴み切れていない。

自分のキャパはなんとなくわかってきたつもりだし、「もうちょっとできるのに…」と思わなくなってきたのだが、それが成長のチャンスを奪っているという事実が本当はあるのではないかと疑ってしまう。

できるだけ結果を自分で操るため、認めるために作った余裕が、広すぎてしまうことがある上に、「まあそれが自分だものな」と勝手に折り合いをつけてしまっているのではないか。

自分の可能性を信じたいというところは別にないが、未知を受け入れる準備だけは前より整っているはずだ。
チャレンジが足りない、とかなのだろうか。
このまま何も変わらなくなることはないだろうが、冷静に平穏に生きすぎるのって実際どうなんだろう?まあこの性格を持っていたら全て平穏に行くことなんてないと思うのだが。


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