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僕が写真を撮る理由

人生は一瞬一瞬の「今」の積み重ねだ。
それを続けていくといつか最後には絶対に息を引き取る瞬間を迎える。

最近何かと「死」を意識するようになった。
別に余命宣告をされているわけでもなければ自殺願望があるわけでもない。

ただ、自分はいつか必ず死ぬのに今死ぬことが怖くないのはなぜだろうとふと思った。
もし仮に自分が3ヶ月の余命宣告を受けたら怖いと思う。
得体の知れない「死」という黒い影がたった3ヵ月先に待ち構えていたら不安で夜も眠れないだろう。
今自分が死ぬことが怖くないのはきっと自分は80くらいまで生きると勝手に思い込んでいるからだと思う。
今日も病気やけがでたくさんの人が命を落としているけど、まさか自分が「不慮の死」というハズレくじを引くとは思っていないのだ。
多分今日そのハズレくじを引いてしまった人全員が自分が引いてしまうなんて思ってもみなかっただろう。

今日を本当に人生最後の日だと思って生きていくのはなかなか難しいけど、自分が確実に死に向かっていることは頭では理解しているつもりだ。

以前別の記事にも書いたけど、僕は自分が確かに歩んだ過去、それらの思い出を忘れたくない。自分の頭の中にしかない過去の記憶を忘れたら、その過去はこの世界に存在しなくなり、まるで自分がその過去を歩んだ事実さえもなくなってしまうような気がするからだ。

僕は最近写真を撮る意味がようやく分かった気がする。
小さい頃母親がよく自分にカメラを向けていたけど、僕はあまり写りたがらなかった。恥ずかしいという思いが強かったからだと思う。
それは今も変わらず写真に写り込むのは苦手な方だ。

でも写真がほとんど残っていない何年も前の旅行や人の事があまり思い出せない事に今になって気がついた。
どれだけ強く脳裏に焼き付けても時間と共に記憶は薄れていく。
人は何かを思い出す時その時々の場面の映像を思い浮かべるから、その映像を思い出すヒントがないと難しいんだと思う。

逆に写真や映像などが残っていると不思議とその時の場面や景色、自分がどんな感情だったかも思い出せたりする。

写真はその場面から時間が経つにつれ価値が出てくるものなんだと思う。
だからこれからはもっと写真を残していきたい。何年か先の自分が今日の事を思い出せるように。

友達に会える回数だって有限だ。
それぞれ生きている環境は違うし、気持ちもこれからどう変化するか分からない。
1人1人に会える残りの回数は意外とそんなに多くはないと思う。
仲のいい友人でも頻度を考えたらあと死ぬまでに100回くらいしか会えないのかもしれないし、場所や日にちや自分の環境など全く同じ条件で会う事は絶対に2度とない。
そう考えたら友人と会う1回1回は本当に貴重な機会になるし、1回1回が最後の瞬間でもある。
そんな人生で1度しかない瞬間をできるだけ写真にしまっておきたい。

たぶん、写真は無理に撮る必要は全くないけど撮っておいた方がいいものだ。









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