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三島由紀夫がエルサレムに行ったらこんな風に書いたかも知れないという空想文

 三島由紀夫は戦後世界旅行自由化になってすぐに海外旅行をした稀有な人物の一人だ。旅の様子もエッセイで残しており、そのウイットに富んだ紀行文は旅がまだ一般的でなかった時代に人々の想像力を掻き立てたに違いない。生意気にも敬愛する三島由紀夫がエルサレムに行ったらという体でエッセイを書いてみた。

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 わたしは思い出す。行きの船旅でイギリスからパレスチナに向かうとき地中海の色と現実の卓抜な対照を織りなしていたことを。
 だれに頼まれたわけでもないのに世界一周を3度もやってしまうと、旅人はスレッカラシになって驚きと感動がなくなる。それでも初めての場所は新鮮だ。新鮮だが言い尽くされたその景色にわたしが今更言って何になるという気が先に立つのである

 わたしは今度の旅行ではことさら自分を一瞬にしてすぎる感覚的享楽だけを受動的な存在に仕立てて歩いた。
 たとえば、エルサレムという街の存在感というものは独特で、実に落ち着かない。

 永遠の鼠いろ、、、陰鬱な空のヨーロッパからエルサレムに来て、いざ輝かしい太陽に会うと途方も知れない歴史的存在感が照らし出されているような気がする。

死と永遠の時間の拮抗、そこに存在する人間。

 わたしはここでも太陽と握手した。太陽の強い握力でぐいと引っ張られたのか、ひたすら大きな存在の力で身ぐるみその中へ突き落とされる。
 かくて人間がこの拮抗の中へ埋没しエルサレムだけが宇宙人のような存在で「いる」ことになったのだ。
 エルサレム旧市街というのはいかにも無機的で、地中海地域遺跡の廃墟のような建築的形態をとどめた清々しい石だけの存在ではなくて、何かいやらしい中間的存在である。それは人間と神との間に永遠に横たわり、人間と神との親密な結合を、いつも悪意を以って妨害している。または、神の余韻を吹き付け何か風邪でもひいたように熱病を引き起こす。熱病はこの場所から遠ざかれば何事もなかったようにケロリと快復する。この実に異様な症状はエルサレム症候群と呼ばれる。

 かつてイエスキリストが歩いた道をそぞろ歩き、その行く道々には銃を携えたイスラエル兵が闊歩している、十字軍の落書きの横目に黒ずくめの超正統派ユダヤ人が灼熱の気候をもろともせず聖書を読んでいる。

 この街はいくつもの時空を同時に移動しながら住むような感じを与えるのである。

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 この文章は三島由紀夫のエッセイが元ネタでわたしのエルサレムの印象を書き加えたものである。そのままの表現もあればオリジナルの表現も含まれている。
 村上春樹がかつてエルサレム賞を受賞しイスラエルに訪れイスラエルの軍事行動を批判したが世界一周をした第二次世界大戦を経験した三島由紀夫はパレスチナをどう見たかはわからない。きっと彼の地の時空の歪み、強い魅力は感じたのではないかと想像する。

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