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乗代雄介著『旅する練習』を読んで

 靄がかかったように先が見通せない今に、救いをくれる作品だと思った。すべてがすっきり呑み下せるわけではない。本を閉じたあとにはモヤモヤが生まれる人もいるだろう。しかし描かれているのは、今を生きる私たちが目を背けてはいられないものである。

 『旅する練習』は小学6年生で私立中学に合格した亜美(あび)と小説家の叔父が、利根川沿いを歩いて旅するロードー・ムービー的小説である。ゴールは亜美がかつて鹿島の合宿所からこっそり拝借してきた本を返すこと。道中、亜美はリフティングをしながら、叔父は風景描写を書き記しながらの“練習の旅”であった。亜美の足には合格祝いに買ってもらった新しいスパイク、ミズノのモレリアを履いている。

 二人は土手の風景や川の流れなど、今の世界を暗く包む閉塞感とは真逆の、空気を思い切り吸い込みたくなるような場所へと私たちを誘う。木々や花、植物、野鳥など人間以外の生き物は、あたふたしている私たちと違ってまったく動じていない。そんな姿は揺れてばかりの日々を送る私たちを安心させてくれることに気づく。物語の舞台は、コロナ禍の2020年春なのであった。尊い年月、積み上げられてきた自然を描くことで、揺らぐ人間社会を感じずにはいられない。

 柳田國男などの目を借りつつ、叔父が書き記す風景に混じった12歳の亜美は瑞々しい。川面から飛び跳ねる魚のようだ。そもそも12歳とはどんな年であったか。ある作家は12歳は人間のなかで最強の年齢であるといっていた。大人の話が理解でき、かつまっすぐな真実や正義を持っている、と。亜美はまさにそうで、社会の酸いも甘いも若干わかりかけているものの、好きなサッカーをどうしたら一生できるか一途に邁進できるパワフルさをもつ。途中で知り合う大学生の女性は亜美にとっても大事な人となるが、亜美はその彼女から心底羨ましがられる。一方、傍で亜美を見守る叔父は時代の憂いというフィルターを通してしか、感じることができない。まさに私たちである。

 叔父は目の前の景色や土地の歴史を綴り、過去の人物が残したものを引っ張り出しながら、歴史は常人が書いているものではなく、あとの者が書いたものである説く。リアルタイムな話ではなく、第三者が客観的にまとめているのだと。そういいながらも、そうはさせない、それだけじゃないこともある、と叔父と作者は粘る。コロナ禍の苦境を書き記し、記録しようと試みること、ともすると心の襞に隠れてしまいそうな疲れを見落とさないこと。物語としての秀逸さの後ろに、時代にしがみついて離れず、忍耐で書き記そうとする作家の姿が見える。

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