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『ゴジラ』VS.『ゴジラ-1.0』(3)

『ゴジラ-1.0』で、最も心に残ったのは、人間ドラマの部分でした。
(以下、ネタバレがありますので、ご了承ください。)

『ゴジラ』第一作で描かれた自己犠牲

『ゴジラ』第一作('54)は、ゴジラとの戦いの背景にある人間ドラマについて、今一つ納得がいかない部分がありました。

第一作のゴジラとの戦いでは、古生物学者の娘である恵美子(河内桃子)に秘かに思いを寄せる科学者芹沢(平田昭彦)が活躍します。芹沢は、自らの開発したオキシジェン・デストロイヤーを恐ろしい兵器になりうるものと認識し、それをひた隠しにしていました。それを翻意させ、ゴジラとの対決に利用させたのは、恵美子の説得によるものでした。

もちろんゴジラによる東京の破壊を目の当たりにし、何とかしなければならないという思いは芹沢にもあったとは思いますが、思いを寄せる恵美子から必死に懇願されたことが直接のきっかけになりました。しかし、芹沢はオキシジェン・デストロイヤーを使うことを決断すると同時に、この技術を世の中から封印するために、自らが命を絶つことを決意します。  

ここで、恵美子は芹沢のジレンマに気づいていたはずです。ですから、オキシジェン・デストロイヤーを使わせることは、芹沢を追い込むことになるとわかっていてしかるべきでした。にもかかわらず、言ってみれば無頓着にも芹沢に頼み込み、それによって彼を死の淵に追いやったのです。

さらに悪いことに、恵美子は芹沢に何の恋心も抱いておらず、別の人間(サルベージ会社の所長)と恋仲になり縁談が持ち上がります。それを知った芹沢は、自暴自棄になった部分があったはずです。恵美子は、そういう部分に何ら気づかず、芹沢を追い込むようなことをしてしまうわけです。

映画のラストで、恵美子は、芹沢が水中で自ら命綱を絶ったことを知り、驚き泣き叫ぶのですが、正直なところ、そこで共感はできませんでした。

『ゴジラ-1.0』における贖罪意識

これに対し、『ゴジラ-1.0』では、人々の行動、特に主人公敷島(神木隆之介)の心の動きと、行動には納得することができましたし、感動しました。

敷島は、罪の意識を抱いて生きていました。それは、戦争末期、特攻隊として飛び立ちながら、故障を偽って島に降りて特攻を免れたこと。そしてその島で整備兵たちがゴジラに襲われた時に、戦闘機の機銃でゴジラを攻撃することをためらい、整備兵たちが殆ど全滅したことから来るものでした。

そのため、敷島は戦後常に贖罪を求めて生きていきます。命の危険をともなう機雷の処理・回収の仕事に携わることにしたのも、その思いがあったはずです。そしてそこで再び遭遇したゴジラという脅威。戦争で「死に損なった」という後悔と贖罪の念をいだく敷島は、ゴジラとの戦いに自らの使命(ないし死に場所)を見出します。
(退役軍人による自主的なゴジラ対策組織の編成も、自分たちが「死に損なった」という意識の中で生まれたように描かれていました。)

愛する人を失った苦しみ

これに加えて、ゴジラの東京上陸によって、敷島は愛する典子(浜辺美波)を失います。典子を失ったことからくる絶望と孤独、典子を殺したゴジラへの復讐心、そして実の娘同様に育てていた少女明子をゴジラから守りたいという気持ち。敷島の後悔と贖罪の思いは、そういった気持ちに裏打ちされることになり、命をかけてゴジラと闘うことを決意します。

明子の未来のためという思いを抱きながらも、それは「特攻のやり直し」という思いがあったのでしょう。それは、敷島がかつて振り絞れなかった勇気を取り戻したということなのでしょうか? 

そうではないと思います。戦時中からの罪の意識から逃れたいという思いとともに、先立った最愛の典子のもとに行きたいという気持ちから、むしろ戦時中にはしっかり抱いていた「生きたい」という気持ちを、ここにきて失ってしまったのではないでしょうか。

愛する人を失った苦しみから逃れるために死ぬということ。それを弱さととらえる思いも自分のどこかにあり、ゴジラとの戦いが、格好の言い訳材料になったという面はあるのでしょう。しかし、誰がそのような彼の気持ちを蔑むことができるでしょう。私としては、純粋な使命感から命を賭けることのほうが、人として理解に苦しみます。

自己犠牲の否定~死を美化しない

このような、敷島の自暴自棄的な自己犠牲の思いに対し、周りは彼を死なせません。彼が戦争中に「死なせた」整備兵の生き残りである橘(青木崇高)は、それまで敷島を恨んで生きてきました。しかし彼は、ゴジラに特攻しようとする敷島の命を救うため、特殊戦闘機に脱出装置を備え付けます。

ゴジラとの最後の戦いで、ゴジラの口に敷島の戦闘機が突っ込み、ゴジラが大爆発とともに水中に没した後、空から敷島のパラシュートが降りてくる場面には胸が熱くなりました。

第一作が、あたかも特攻を美化し、特攻によらずばゴジラに勝つことができなかったのに対し、『ゴジラ-1.0』では、あらゆる意味で人間が勝利したのです。それは、人間のゴジラに対する勝利であるとともに、敷島が自暴自棄の心を乗り越え、「生きたい」という気持ちを取り戻した勝利だったのです。

『ゴジラ』第一作は、このゴジラという怪物を創造し、世に送り出したという点において、ゴジラ・シリーズのいかなる作品も越えることのできない不動の金字塔です。『ゴジラ-1.0』は、この『ゴジラ』第一作に様々な形でオマージュを送り、敬意を払いつつ、人間ドラマにおいて、見事に第一作を越え、素晴らしい感動をくれたのです。

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こういう風にしても良かったかも(蛇足)

さて、以下は蛇足です。
このような、『ゴジラ -1.0』の素晴らしい人間ドラマをより一層盛り上げる意味で、いくつか「こういう風にしても良かったかも」という点を挙げたいと思います(後知恵ですみません)。

(1)典子生存の知らせ
ゴジラに対する勝利の後、典子が実は生きていたという知らせが敷島のもとに届きます。しかし、できれば敷島がゴジラに戦闘機を突っ込ませる前に、その知らせを届けてほしかったです。

敷島は、まさにゴジラの反撃によって壊滅寸前に追い込まれた仲間たちの船団を、そして日本全土を、命を賭して救います。これは見事に敷島にとっての「贖罪」を果たすことになりました。しかしその時点で、典子を失った(と思っている)ことからくる絶望と孤独からは救われていません。パラシュートで降りてくる時、彼はまだ死にたい気持ちが半分残っていたはずです。

できれば、戦闘機で飛び立った後、最後の攻撃の前に、典子の無事を無線で彼の耳に入れてほしかったです。操縦桿を握りながら、自らの仲間たちと日本を、そして明子の未来を救うために命を賭す決意と、典子や明子と一緒に生きていたいという気持ちが相まみえる、究極の相克を描いてほしかったです。

そのことによって、ゴジラ攻撃から生還することの価値を一層高め、生きることの素晴らしさを、敷島と私たち観客とで共有できたのではないでしょうか。そしてそれは、実際に特攻隊で大切な人を残して亡くなった多くの日本兵の無念な気持ちをも表現することにもつながり、第一作が依らざるを得なかった自己犠牲による解決策を一段階上に昇華させることを強調できたのではないでしょうか。

(2)敷島を死なせないための動き
またこれと関連するのですが、敷島を死なせないために周りの人がもっと動いてほしかったです。敷島を死なせないことについては、専ら橘に頼っていたわけですが、秋津(佐々木蔵之介)ら機雷処理・回収の同僚も、気付いて、動いてほしかったです。

彼らも、敷島が典子を失ったことに対する復讐心や自暴自棄の心に気づいていたわけですから、戦闘機に乗る意図にもう少し思いをはせてほしかったです。例えば、ゴジラの周りを飛ぶ敷島の戦闘機の飛び方に異様なものを感じて、無線で敷島を諭すとか、もしくは秋津が典子の生存を無線で敷島に知らせ、絶対に生きて帰るべきことを説得するとか、そういったことができなかったものかと思いました。

(3)敷島の戦闘機の脱出装置
そして、橘が考案し設置した脱出装置。敷島にはこの脱出装置が設置してあることを教えてあった(画面では聞こえず私たち観客にはわからなかった)のですが、これは教えない方がよかったのでは。

特攻する直前に爆弾の安全装置を外す必要があったのですが、この安全装置と連動して脱出装置が作動することにしておけば、半ば自ら死に向かう敷島を、橘が強制的に救う形にできたと思います。

橘は、戦争中に仲間を死に追いやった敷島を殺したいほど恨んでいましたが、決して特攻などさせない、死なせたりしないのです。橘の、死んだ仲間を今も大切に思う気持ちが、逆に死に向かう敷島を救うのです。特攻のようなことをさせても、仲間は喜ばないと信じているからです。

そして、もし敷島がこの時、典子の生存を知っていたとすれば、死にたくない、でもここで命を賭けなければ皆が死ぬという究極の相克を突きつけられることになります(脱出装置の存在を知らなければ、その選択は一層厳しいものになります)。敷島にとってはつらいですが、その後の勝利と生還に対するセレブレーションが一層感動的になったと思います。

(4)敷島生還への喝采
そして最後にもう一つ。この最後の勝利と生還の瞬間、パラシュートで降りてくる敷島に、船団がもっと歓喜を表現してほしかったです。それは、まさにゴジラの熱戦で死ぬ直前であった自分たちの救世主であり、日本を救った英雄なのです。それと同時に、試行錯誤で進めてきた対策チーム全体のゴジラに対する勝利の瞬間なのです。

思い出されるのは、アリステア・マクリーンの小説を映画化した『ナバロンの要塞』です。エーゲ海に設置されたナチスの砲台による攻撃で連合軍艦隊は壊滅の危機におかれます。潜入した工作部隊がラストで砲台を爆破し、近づいていた艦隊は寸前のところで救われます。岸壁から崩落する砲台に、艦隊から一斉に歓声がわりの汽笛が鳴らされます。これは非常に感動的でした。『ゴジラ-1.0』でも、敷島に対し、そして作戦へのすべての参加者に対し、このような喝采がほしかったです。

これらは本当に蛇足です。
そんなのがなくても、『ゴジラ-1.0』は素晴らしいと思いました。


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