寄り添う事しかできない僕たち。
チェーホフのワーニャ伯父さんという戯曲を読んだ。
無能だった教授の為に、人生を棒に振り、領地に残されてしまったワーニャ伯父さん。
「なんてつらいんだろう。このつらさが君に伝わればなぁ!」
と、感情をこぼすワーニャ伯父さんに向けて、ソーニャは答える。
「仕方がないわ、生きていかなければならないんだもの!」
♢
先日、友人のお悩み相談的なメッセージのやり取りをしていた。
友人は、どうしようもないくらいうまくいかない人生に辟易していた。
心の苦痛は体に表れ始めていた。あちらこちらの調子が芳しくない。
毎日毎日小さなことに不快感を覚えて、悪循環に入る感情に抵抗して、
いつの間にか心がぐちゃぐちゃになって、そのストレスは体を蝕み始め、
また悪循環に陥る。そんな毎日をどうにかこうにか生きている。
そんな話だった。
一つ一つのメッセージに応えていく。
次第に画面をなでる指が震えてくる。呼吸は早くなっていた。
感情が堰を切って流れ出しそうな心を必死で抑えている自分に気づく。
感情が揺れている…。
友人は、消えない過去の痛みを引きずって、未来に不安を覚えて苦しんでいる。
あぁ、なんてこの人は僕に似ているんだろう。と思った。
そして、熱のこもったメッセージを返している自分に気づく。
打ち込んでは決して打ち込んでは決してを繰り返して言葉を選ぶ。
どうにかこうにか今日とこの先の未来を生きようとしている誰かに向けて、厳しい言葉を向けることも冷や水を浴びせる事にならないように。
大丈夫。君は大丈夫。
と想いを込めた言葉を尽くすくらいしかできないけれど、心の底から言葉を尽くして寄り添いたいと思った。
♢
あなたは私と同じ目線で生きているような気がして相談しやすかった。
と、メッセージの途中で言われた。
僕もそう思う。
少しだけ人より器用で、少しだけ人より要領がいい。
それなのに、生きるのはどうしようもないくらい下手クソな僕たちだ。
あなたは僕とよく似ている。
だから僕はあなたを否定することも諭すことも出来ない。
言葉を尽くして友人を励まして肯定したかった。
それは、僕自身への願望とエゴだった。
友人を肯定することで、僕は僕を肯定しているんだ。そう思った。
僕には僕の、友人には友人の心の痛みがあって、不安を抱えていて、苦しみ悶えている。それでも生きる事しかできない僕たちだ。
その痛みは分かり合うことも、分かち合うこともできない。
人間どんなにつながっていたとしても、自分以外の感情は知りえない。
けれど、苦しみ悶え、痛みを抑えるその手にそっと手を重ねるように寄り添うことはできるはずだ。
♢
耐えられないほどの苦しみを、「君に伝わればなあ」
とこぼすワーニャ伯父さんに寄り添うソーニャはこんな気持ちだったのだろうか。
ソーニャもワーニャ伯父さんと同じではないけれど、似た痛みを抱えているから寄り添うことが出来るのかもしれない。と思った。
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