痛みに居場所を。過去に慈しみを。
noteの更新が停まった。
やることの優先順位が変わった。
すこし忙しくなった。
と、いろいろと理由はあるけれど、大きな理由はたぶん、
ちょっと前に人生の一つの側面でくじけてしまったから。
1,2カ月前にくじけてしまったまま、まだちゃんと立ち直れていない。
そのせいか、内を考えても最後はその時の記憶とか後悔とか、そこらへんの思考に行きついて気がめいってしまう。
思考の行きつく先がいつも同じ。
くじけて打ちのめされてしまった時の自分の不甲斐なさが僕の思考を狭めてしまう。
けれども、どんなにそのことを考えても過去は覆らないし、人生はとどまることなく続き、明日は今日に流れ、今日は昨日へと流れ続ける。
僕一人立ち止まっていても、社会も世界も流れ続ける。世界は僕一人で作られているわけではないらしい。
とどまることなく流れ続ける世界の中で前を向いて進みたいのに、思考はいつもいつも過去のある一点へ戻りそこへとどまり続けようとする。
1,2か月前の出来事だったというのに未だにそこに流れ着く。
全ての水が流れ巡り海に還るように、僕の思考も過去の一点に流れ着く。
やはりそのくらい打ちのめされてしまったのだろう。と、納得させる。
僕たちは、肉体的な痛みも、心の痛みも強く覚え忘れないようにする生き物だ。そうやって、命の危険から身を守るすべとして太古の祖先から受け継がれてきた生命のシステム。
人間とは、生き物とはそういうものだ。
と。なんとなくわかっているから、そんな自分を否定しなくてすんでいるのが不幸中の幸いなのかもしれない。
だから、それはそれで仕方がない。と、自分に優しく声をかける。
その痛みを隠すことも否定することも必要ない。
痛みに居場所を与えよう。
痛む心を思考から追い出さずに居場所を与える。
そこにあることを否定せず受け入れる。
過去にあった出来事も、後悔も、痛みも、すべてなかったことにはしない。
打ちのめされてくじけてしまった過去だったとしても、それは僕を作る大切な記憶であると思える。
過去、記憶、痛み。すべて僕のこれからを作り上げる大切な人生のピースになるのだろう。いや、そうなってくれないと困ってしまう。
だから、振り払えない過去を疎むことなく、居場所を与える。
過去の記憶が痛むたびに、何度でも。
何度でも居場所を与え、痛む過去を慈しむ。
あぁ、立ち直れていなと思っていたけれど、
ちゃんと立ち上がって進もうとしているじゃないか…。
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