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「オリンピックを開催すべきか中止すべきか」ではなく、「これからの世の中どのようなオリンピックを目指すのか」、を議論すべきではないか

オリンピック開催の是非

時節柄、オリンピックの話題で持ちきり。

論点は、このコロナの状況下で、開催すべきかどうか。
無論、これを機に、そもそもオリンピックが担ってきた、スポーツの大会としての意義、IOCの役割是々非々、スポーツと経済の関係もハイライトされ、興味深い。

選手としてオリンピックを目指す立場、選手じゃない観客側として世界のアスリートの戦いぶりをみてみたい立場、なんだか街が賑わうイベントとして雰囲気を味わってみたい立場、これに乗じてビジネスチャンスをにらむ立場、全く興味もないしこのコロナのご時世余計なことはしてほしくないとひそかに念じてる立場、色々あるから、そもそも意見が一つになることはあるまい。

それぞれの論点、意見に丁寧に反応したい気持ちもあるが、開催するか否か、という議論の中で、今ひとつ物足りない気持ちを感じるのは私だけだろうか。

これまでのオリンピック

オリンピックの歴史を、ここで振り返ることはしないが、超大雑把にいうと下記のようになる。

<古代オリンピック>
・紀元前776年に第一回開催から、393年に開催の第293回大会まで、1169年間継続
<近代オリンピック>
・古代オリンピックの終焉から約1500年後、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵の発案から、1896年に古代オリンピック発祥地のアテネにて、第1回の近代オリンピックの開催
・以降、古代オリンピックと同様、4年サイクルで開催
・今年2021年、東京オリンピックが開催されれば、近代オリンピックとしては、第32回目となる

オリンピックについては、上記に限らずいろんなサイトがあるので、ご理解いただけると思うが、当然、古代オリンピックと近代オリンピックで、目的、参加者、競技種目などなど、異なる。

個人的には、古代オリンピックが、293回も開催されたことに驚くが、近代オリンピックも、年々、種目が入れ替わったり、様相も変わってきたことは周知の事実だろう。

昨今(に限らないが…)、商業主義的な色合いが強いこと、スポーツの政治利用なども指摘されるが、人が作り上げるイベント、実際の社会・世界の中で開催される限り、時代の波を受けることは避けられない。

現代に求められるオリンピック

となれば、このパンデミック下の世の中、さらにいうなら、例え、Covid-19によるパンデミックが一旦抑えられたとしても、違うタイプのウィルスが活動することも十分考えられる今、この時代にあった、新たなオリンピックを構想するべきだ。

ばかを承知で言うなら、超極論、無観客、屋外で、選手の交錯や密を避けられる陸上競技だけなら、競技会は可能。これを、最低の極論として、最高の極論は、前回のリオデジャネイロオリンピック規模の開催

ただ、走るだけ。

リオデジャネイロオリンピック。

この2者の極論の間(そう、それは壮大なまでのギャップなのだが…)で、何ができるか。理論的には、いくらでもありそうだ。

論点は、「今年、この東京で何ができるか」ではない(というか、「論点をそこに置くべきではない」)
「今後、定期的にパンデミックが発生することを想定した世界で、アスリートのための競技会を開くことが出来るか」、と言う観点からの議論。

言ってみれば、それは、「パンデミックの中でしぶとく生き残る人類として、どのように、身体能力を競いあい、勝ち負けを決め、どう世界一と認定するか」と言うある種哲学的な議論に通ずると思われる。

ビジネスが、Work From Homeを加速させ、オンラインでかなりのことを進められるようになった今、スポーツにおいても、やれることは全てオンライン活用することは必至だ。

もしかすると、以下のような論点も、現代のさまざまな技術を駆使すれば、クリアする方法もあるだろう。

・どうやって、違う拠点で、同時にスタートをきって勝ち負けを競うことが可能かどうか
・どうやって、遠隔地同士で不正のない判定をするか
・どうしても、選手同士のコンタクトが必要な競技において、どう、選手同士の安全を確保するか

計測機器の進化や、競技会セレモニーに費やす技術力を考えれば、大概の技術的な問題点はクリアできるはずだ。

筆者自身、実際の競技場に置いて、リプレイの効かない環境でスポーツを生で見ることのかけがえのなさは痛いほど知り尽くしているが、とはいえ、こういう時代、VR技術を駆使して、個別に、もっと豊かなスポーツ観戦体験を促進させることはできよう。

そうして、各種目、最後の決勝だけ、生のスタジアムで行う、と言う手だってある。

パンデミック時代の「アスリート」の意味

どうしてそんな馬鹿げたことを書いているか、というと、ネットやテレビなどで目にする議論のほとんどが、皆、従来型の最近の大規模オリンピックをしなくてはいけないことが前提であり、また、コロナに始まるパンデミックが直近、どうなるか、に対する漠然とした不安感、をベースに、賛否が議論されているように感じられてならないからだ。

考えるべきは、全く逆であって、パンデミックは簡単にはおさまらず、これからも人類はパンデミックと共生していかざるを得ない、その中で生きていく人間にとって「アスリート」との意味は何か、どうアスリートとして世界で競い合うのか、を問い、その結果として、どういう競技会が相応しいのか、を議論するべきなのだ。

ソーシャルディスタンシング、がもし現代の人類に突きつけられた運命だとしたら、人と人とのふれあい、家族の意味、共同体のあるべき姿も全て変容していくはずだ。事実、確実に社会は変容しつつある。

同時に、ソーシャルディスタンシングと言う、新たな人類の作法が思想的にもDNAに刷り込まれつつある今、本当の意味でのアスリートとは?

そこを問わぬ限り、アスリートの祭典としてのオリンピックの、今後あるべき姿も見極めきれない。

国立競技場建設までの紆余曲折

ところで、東京オリンピックのメイン会場となる国立競技場がお披露目されてかなり経つ。
筆者はまだ訪れていないが、評判の良い施設になっているようだ。

ただ、この国立競技場の設計案について、紆余曲折があったことをどれだけの人々が覚えているだろうか。

もともと、コンペで正式に選ばれた案は、故ザハハディド氏による、かなり大胆なものであった。

ところが、その後、観客数を含むプログラムについての疑義が出されたり、想定される工事費が予算をはるかに上回りそうなことがハイライトされ、最終的に、このザハ案は廃案となり、再度、コンペティションが行われ、現在の案が選ばれている。

この問題は、簡単に議論することはできないが、当時、個人的には、絶対に何がなんでもザハ案をベースに軌道修正すべき、と考えていた。

正式に、一度、デザインの案としてセレクトしたのだ。選ばれたものには、コンセプト、物語、新しい時代へのメッセージ、さまざまなものが込められている技術的困難、予算の超過、プログラムへの不整合が有れば、一つ一つ、解決してば良いだけの話だ

通常、アーキテクトなら、そんな事態は当たり前の話であって、それを、身を削って、現実に合わせながら、実際の形にしていく、それが建築にまつわるものの思いだろう。

それをいとも簡単に廃案するなど、では、何を持って、ザハの案を選んだのか…
(無論、そこには、最初のコンペ時の、選考委員の中でもいろんなぎろんがあったとは言われている。しかし、どんな理由があるにせよ、選ばれた訳だし、本当に、問題があるなら、選ぶ過程で徹底的に議論すべきだ。)

中途半端で醜い、世間や、政治の多数決ではなく

すでに新たなデザインで(しかも、それはそれで素晴らしい)建設されたスタジアムであり、そのこと自体、今更議論しても仕方がない。ただ、思い出したいのは、結局、この騒動の過程で、先ほど申し上げたような、コンセプト、物語、新しい時代へのメッセージ、さまざまなものが、置き去りにされ、中途半端で醜い、世間や、政治の多数決で物事が議論され決まっていった経緯だ。

そして、今回、オリンピックの開催の是非も、同じような、中途半端で醜い、世間や、政治の多数決で物事が議論され決まっているように感じられる、そこが、無性にやるせない。

今回も、もしかすると、開催予定の2ヶ月前になっても、やるかやらないかがはっきりしない、異常な事態になっている中、むしろ、もしかすると、これは、新たなアスリートのあり方、その競技会のあり方を議論する、格好のチャンスなのかもしれない

開催まで2ヶ月を切って、いまだに混迷を深める異常事態である。
が、だからこそ、やるかやらないか、の国をあげての中途半端な多数決ではない、未来を考えた思想的な議論を深められないものか…

だからこそ、今、ザハハディドを語る意義もある。

ただ、走る

東京オリンピックについて。既に、時期を逸した話題ではあるかもしれないし、現実離れした、議論は、笑止千万だろう。

ただ、もしかすると、高度に制度化、システム化され、一部のエリート達のものとなってしまったスポーツの世界を、一個人一個人の元に、生々しい体験として取り戻す絶好の機会、にならないとも言えない。

近代オリンピックがその役目を終え、今後、新たな意義を持ったオリンピックが時代から要請される可能性すらあり得るのではないか。

実際、どうしても開催する、となれば、この残り2ヶ月の中で、土壇場の激論があちこちでなされ、さまざまな大混乱が多発するだろう。
そこが、最大のチャンスであり、そこから、次回以降のオリンピックへ向けたさまざまなアイデアが生まれるのかも知れない。

少なくとも、純粋に今のこの時代に、一人の人間として、走ること、体を動かすことへの原点に帰る、またとないチャンスかも知れない。


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