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『人間失格』を読んで。

「恥の多い生涯を送ってきました。」
太宰治『人間失格』の有名なこの強烈な一文。
僕は冒頭はこの一文だと思っていましたが、正確には
「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」
という始まりです。

つまるところ、『人間失格』は”太宰治”の自己批判を、
(正しくは大庭葉蔵という人物の自己批判ではあるが、)
第三者が読んでいるという構図になっているのです。

『人間失格』を読んだ最初の感想。
「自分はここまで醜くはない。しかしそこまで美しくもない。」

太宰治は幼少期から”人間の営み”というものが分からなかったと記しています。
人の幸せとか幸福だとかが、理解できない。
それでいて自分にとっての幸せが何なのかもわからない。
分からないことが怖く不安で発狂しかけるほどに。
そういった社会とのズレを埋めるために太宰は”道化”を生み出した。
他人を偽り、自分を偽り、周りに合わせる。
仮面を被り”道化”を演じる。

そんな社会とのズレに苦しみ喘ぎ悶えながら、思想活動をする社会不適合者の集いに居心地の良さを覚え、不幸を背負う多数の女性に溺れ、酒に溺れ、薬に溺れる。
そして彼は自身に『人間失格』の烙印を押す。
太宰はこの小説を書き上げ、翌月に命を絶ったとされる。
自分の死を容認するために書き上げた一冊。

ただ太宰の心のうちは万人が理解しうるものとなっている。
全く理解できない人外などでは決してない。
彼もまた僕と同じような人間でしかないように思う。

果たして”道化”を演じずに生きてこれた人間がどれほどいるんでしょうか。
僕が特に考えることなく、”当たり前”のようにつけた仮面を太宰は苦しみながら手に取った。
僕が”当たり前”のように目指した幸せを、太宰は他人から半ば強引に目指せられる。
社会に”盲目的”に適合した自分が幸せで、世界の異様さを”見えている”太宰が不幸だとは自分はどうしても思えない。
盲目的に生きている僕もまた人間失格なのかもな。

最後に、文中で僕の好きな箇所があります。
それは堀木という友人と「罪の”アント”(対義語)」を考えている箇所。
太宰は罪の対義語は罰ではないか、とハッとする。
ドストエフスキーの『罪と罰』は類義語を並べているのではなく対義語を並べているのではないか、と。

生涯、”普通”の社会生活が送れなかった太宰は、罪の意識が拭えなかった。
恐らく誰かに罰して欲しかったのだろう。
罰されることで罪の意識から解放されたかったのだろう。
ついには罰されることの無かった太宰。
きっと自分に人間失格の烙印を押し、「恥の多い生涯」を送ったと、こき下ろすことで自分を罰したかったのだろう。


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