教員としてどうなの?という疑問は要らない

いじめ、引きこもり、詰め込み教育、学力低下、家庭環境の起因くる教育格差、教員不足による教育の質の低下など、現代日本の教育における問題は山積みである。

明治に作られた仕組みや指導法を70年以上たった今でも続けている古い態勢に問題があるとも言われている。

つまり、問題なのは古い考え方を捨てて新しい考え方を取り入れることができないことだ。
特にこの『捨てる』ということができない。

その証拠に、自分や他の教員の行動や発言、指導に対して疑問を感じると「教員としてどうなの?」などと発言する者がいる。

この発言をする感覚というのは、教員に限らず、大人子供にも関わらず、社会全体の感覚と言ってもいい。

国民は誰もが自分なりの『教師像』をもっており、そのほとんどは過去に出会った教員や教育環境によって作られた感覚だ。

そして、教育に関する様々な変化や多くのイノベーションはこの無数の『教師像』によって摩耗され、即座に消し去られてしまう。

そして、教員は常にこの世間の『教師像』に怯えながら業務を遂行するようになっている。

一方では日本の教育はこのままではダメだと言いながら、過去の『教師像』という型にはめてしか教員を評価できないという矛盾を常に抱えているのだ。

まずはこの個々がもつ『教師像』を捨てるべきではないだろうか?

教師は誠実で正直であるべきだ、
教師は真面目で勤勉であるべきだ、
教師は知識や技能を豊富にもっているべきだ、
教師は正しく話し、人権を重んじるべきだ、
教師は規則に厳格であるべきだ、
教師は子どもの手本あり、導く存在であるべきだ、

これらの『古い教師像』は全て捨てて良い。

「いじめをやりたいやつは勝手にやってろ」と言い、
「学校に来たくないなら来なくてもいいんじゃない?」と言い、
「引きこもりって最高じゃないか!」と言い、
「知識を詰め込める頭のある奴は詰め込めばいいし、詰め込めないならGoogle先生に聞けばいい」と言い、
「学力が低くても、毎日楽しく生活ができればそれでいい」と言う。

「教師としてどうなの?」という問いは無視して、自分の信念を貫けば良い。
そうすれば、様々な『新しい感覚』が教育現場に充満し、その中からまた『新たな教師像』が生まれるはずだ。

世の中の教師像のアップデートは日本教育のアップデートに確実につながると信じている。

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