手を差し伸べる教員は要らない

学校には特別な支援を要する子どもがいる。
その子たちの多くは特別支援学校や特別支援学級に通い、通常学級とは違うアプローチで教育を受けている。

この特別な支援を受けるには、専門家がテストや面談をして、その支援が必要であると認められなけれはならない。

知的障害で言えば、一般的にIQ70未満という障害認定基準が設けられていたりする。
だから、その子たちはある程度の科学的根拠を裏付けとして、特別支援の専門職員が教育に当たっている。

しかし昨今問題となっている境界知能の子供たちはどうであろうか。
ちなみに、境界知能とは、IQ70〜84以下に位置する人のことである。

この境界知能の子供たちは、要支援の認定が受けられずに、通常学級での指導を受けることとなる。そしてその多くは、学習や学校生活に困難を抱えたまま過ごすことを余儀なくされている。

これはこれで確かに問題であるが、支援が必要な者とそうでないものとの線引きをしなければならないのも事実であり、なかなか難しい問題である。

しかし、本当の問題はここからだ。

特に小学校で話だが、このような境界知能の子どもは、通常学級では他の子と比べて教員から手厚く支援を受けることになる。

しかし、その支援というものは、その子が困らないように先回りして助けるものばかりだ。

算数ができないから、その子には他の子とは別に簡単なプリントを用意したり。
なんなら他の子が学習している間、その子に付きっきりで教えたり。
漢字の書き方が覚えられないから手をとって一緒に練習したり。
作文の内容が考えられないので、いっしょに考えてあげたり。
とにかくあらゆる場面で教員が助けが必要となる。

しかし、それはほとんどの場合、教員が能動的な行動による。
これが問題なのだ。

なぜなら、こちらから助けるということは、その相手の能力を見限るということだからだ。
分かりやすく言えば、その子の成長を諦めるということだ。

しかし、教員はそうは感じていない、なぜなら、その支援によって子どもの困難が一時的にでも解消されることで、自己効力感を感じ、やりがいにしているからだ。

そして、助けられる子どもとそうでない子どもに間の差はどうしようもない程に広がり、小学校高学年になる頃には、どこから手をつければ良いかわからない程に骨抜きな人間となっている。

これが支援によって生まれる格差である。

助けが必要な子どもに本当に必要なのは
『自分がどのような時に助けが必要かを理解すること』と、『よりよい助けの求め方を身につけること』である。
それを気付かせずして、助けて続けるのはもはや教育とは真逆の行為である。

境界知能の子どもは、教員が自己効力感を感じるために存在しているのではない。
これは『個に応じる』という言葉を誤って解釈した教員の自己満足に他ならない。

今すぐに考えを改めて欲しい。

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