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世の中にはどうしてもわかりあえない人がいる

ということを、学ばさせられた。そういう出来事があった。

幼い頃から「仲良くしましょう」「助け合いましょう」的なことを幾度となく教えられて躾けられて生きてゆくのが、特にこの国の青少年というものだと思うけれど、まあなんだ、無理だよね、すべての人とわかりあおうってのは。

こないだもつい「うっせぇわ」って口ずさみたくなっちゃうような出来事があって、

そういう腹の立つ出来事に出くわすたび、私は「良く言えば、学びってヤツか」と思わされる。反面教師なんて言葉もあるくらいだしね。

人はきっと、学校で「建前」を学ばされるのだ。

本音と建前(ほんねとたてまえ)は、何かしらに対する人の感情と態度との違いを示す言葉である。しばしば日本人論に見出される言葉でもある。—Wikipediaより

いちいちぶつかりあっていると疲れるし、社会も回ってゆかないから、だから「建前」を学んでそれを行使せねばならない。だから「仲良くしましょう」「助け合いましょう」なんて無理強いを叩きこまれる。しかし、人は皆どこかで気づいてしまっているのだ、すべての人とわかりあうなんてムリだって。だからいじめとかも起こるのだろう、そういった矛盾へのアンチテーゼ的な意味合いを無意識に孕ませながら。

今回、そういった面倒事に巻き込まれて、私は何よりも「これ以上深みにはまらないこと」を望んだ。ずぶずぶの沼地を全部抜いちゃいました☆して清浄に、なんてことは望まない。わかりあえないなら、必要以上に近づかない―それに限ると、さすがに身をもって学んだのだ。

以前の話だ。職場にて、事務のおねえさんやら私やらに嫌がらせをしてきたどーしよーもないオーバー60のババ…失礼、おばさま二人組の内の片方とまだ交流があった頃、こんな話題になったことがある。

私が実家の母とうまくいっていないと口にした時、そのおばさまは執拗に「でも、血の繋がったたった一人のお母さんでしょう?」と言って、私と母との関係にえんえんと疑問を投げかけた。というか「母親なら大事にして当たり前」という価値観を掲げて、それをけして曲げようとはしなかったのだ。

彼女の中には「自分の信じているものだけが正しい」という法律があり、それを絶対に揺らがせないで生きている様なので、こいつぁ仮に姑にしたらしちめんどくさいだろうな、と、私は辟易した。

そういう絶対的な法律をもって生きている人に対し、話し合いという手段は大概、無意味だったりする。

だからこそ我々は、折り合いをつけて生きていかねばならない。わかりあえないなら、必要以上に近づかない―それはいわゆる処世術というやつだろう。必要最低限のおつきあいさえできれば百点満点のはずだ、それ以上を求めるなんて酷すぎる。

件の職場のおばさまと違って、私は家族とうまくいかずに過ごしてきた人たちをそれなりに見てきている。だからこそ、自分だけが異端というわけでも無いのを知っている。でなければどうして「毒親」という言葉が世にあるというのだ?

短い人生、なるべくわかりあえる人たちと過ごしたい。その中でも特に、自分の心をきれいな色に染め上げてくれる様な人と、楽しい時間を過ごしたい。

だから、わかりあえない人との徒労に終わる時間なんて、要らないのだ。

でもおかげさまで「(わかりあえる相手でない人に)わかってもらえない自分が悪い」という、おかしな罪悪感はもう持つ必要が無いのだなあ、と理解できた。ダンゴムシがスティーブ・ジョブズとわかりあおうとしても、なんかすごい機械でも作られない限りはおそらくムリだろう。しかしそのことをダンゴムシが申し訳なく思う必要が、どこにあるというのか。ダンゴムシは丸まっていれば百点満点、彼らの生涯にスティーブ・ジョブズをわかりあう必要性は、まったく無いのだから。

だからもう、傷つく前にただただ「あ、わかりあえないんだ」と認めてしまえばいい。傷つく必要なんか無い、別の生き物として認識しておけばいいだけだ。

それがわかっただけでも、わかりあえない人との出逢いはムダにはならなかった。あざーっす。腹立つけど、私、それよりとび森やってたいのでもうどうでもいーや。


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桃胡雪(みるくゆき)
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