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Odalisque

とりとめのないことを綴ろうと思う。

以前、自分で書いた小説の中で、

「女の子のからだってさあ、魅力的だと思わない?」、もう既に酔い始めているなおこさんが、煙草をくゆらせながら言った。「私、ガリガリよりもちょっとふくよかくらいが好きなんだ。土偶だってさ、おっぱいとかおしりを強調したデザインのが可愛くない?」

…なんてことを登場人物に言わせたことがあったけれど、それはまぎれもない私の本音であるなあと、ふとそんなことを思った今日この頃。

そしてこの登場人物こと「なおこさん」の描写に、

大きめな胸にはブラもされておらず、申し訳程度にスリップが一枚纏われているだけであることは、綿のワンピースごしに私にもわかるほどだった。

という表現を用いたことを思い返してみて、なんとなく「しめつけられる人生なんざ、そりゃあイヤだよなあ」なんて共感してみたりもした。

ずいぶんと駆け抜ける様に生きてきたこれまでの人生の中で、ときどき、ほんのわずかな人数ではあれど、女性に対して恋愛感情にも似た感覚を抱いたこともあった。—と、今だからこそ振り返られるのかも知れない。世の中がそういったことに対しておおらかになった、という書き方には語弊があるよなあとは思いつつ、やっぱり昔よりかは口に出しやすくなったところがあるからこそ、私もこの記憶を改めて認めているのだろうなと思う。

そういう気持ちをきちんと咀嚼してみると、やはり女性のからだというのはうつくしいなあ、絵とか描いてみたいな、なんて欲求が生まれてきたりもした。

中にあるもの

なんとなく頭の中に構図があったものを適当に描いてみたら、やっぱりなんだか陳腐になった。けれどいわゆるラフ画ってことにしておこう。いずれまたきちんと形にできるその日まで。

あと「しめつける下着」に急激な違和感みたいなものを持った。おっぱいの形をきちんとさせておくには、そういったものが不可欠だとも聞く。でもグラビアの撮影とかでやる手法だという「実はテープでぎっちぎちに寄せてあげて谷間を作る」っていうのもマジで悪手だよなあと。悪手?…とりあえず、悪い手段だろうよ。

昔の芸術における裸婦画とか、オダリスクの絵みたいな、柔らかくてふんわりとした美をそのまま享受したい。

グランド・オダリスクほんと好き。きれい。

で、ちょっとだけ「手作りで下着を作ってみたいな」とも思った。一応、ネットで見る限りできなくはなさそうだ。別に売ったりしなきゃあそこまでの出来でなくともいいのだし。せめて睡眠時くらいはゆるい塩梅の下着を着けたっていいんじゃあないのかねえ、見えないコルセットで拘束されているよな時代だもの。

なんていうか、私は高校時代にほんの少し美術を齧った程度の人間であって、絵を本職とされているかたからは、こいつなめてんじゃねーぞと思われたってしゃあない存在であることに自覚はある。

ただ、自己表現の方法をちょっと広げてみたいとも思ったのだ。

長文が書ける場でないところで世界観をいかに出すかみちみち悩める「歌詞」という形式も楽しいし、自分が笛系の楽器になったみたいな錯覚を持てる歌唱の場も楽しい。

だから、頭の中にあるものを視覚から入る形でもって表現できたらもっと楽しくなれるかな、とも感じた。

そしてめちゃくちゃエスニック?っぽい服が着たい(唐突)。たぶん、先述の「なおこさん」に引きずられている。私はノーブラで生活する勇気なんざないけれども。インド綿とか、麻とか、そういう素材の服に包まれて生活してみたい。いわゆる自然派な生き方をしたいのとも違うのだけれど。

そんなことを考えつつ、明日から仕事の繁忙期だ。めんどくさい。逃げ出したい。でも逃げてもお金は派生しない。拘束、だねえ。せめて心だけはとらわれずに夢の中を漂っていたい。


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