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日曜の午前、山親爺と少女。

日曜日の午前中、部屋の中には毎週なんとなく聴いているFMラジオが響いていた。

その教員住宅は地方に打ち捨てられた団地の如くボロ屋で、画面付きのインターホンなんて便利なものは付いていない。古臭いピンポンという音にはーい、と間延びした返事をし、はて荷物なんて何か頼んでいただろうか?と、首をかしげながら私は玄関へ向かった。

ところどころ錆びた鉄の扉の向こうには、夫の生徒だろうか、まだあどけない少女が緊張した面持ちで立っていた。

「…センセイなら部活で」「いや、あの、私は奥さんに用があって!」

私の言葉を彼女はさえぎった。しまむらか何かで買えそうな一張羅らしきワンピースを着た彼女は、声を震わして言った。

「センセイと、別れて欲しいんです。」

とりあえず彼女を部屋に入れた。すぐさま、だった。両隣の教員家族はみんな留守のようで、私は心からほっとしていた。

パッチワークの布が張られたソファは私が結婚前から大事にしていた宝物で、私は彼女をそこに座らせ、ラタンのテーブルにそっとお茶を出してやった。お茶請けには、千秋庵の「山親爺」。私の好物で、我が家に常にストックされているものだ。

彼女は案の定、夫のクラスの生徒だった。ということは、中学三年だ。もうすぐ受験を控えた、特に大切な年ごろの娘さんだ。そんな少女に、夫が手を出してしまったかと疑うことを、さすがに私はしなかった。いくら一時の感情に流されそうになっても、どちらかというと熟女専、それが何故だか私で手を打ってしまったあの夫が、こんな幼げな子に手を出すはずが無い。

そういえば「お前は若い頃の〇〇(もういい御歳の熟年女優)に似ているんだよなあ」なんて、夫に言われたこともあったっけ—そんなことを思い出しながら、私は彼女にお茶を勧めた。

「ルピシアの緑茶は美味しいんだよ、」「…いや、あの、私は奥さんに大切な話をしに来たんであって…お茶をいただきに来たんじゃ、ないんです」、彼女はとにかく頑なで、その様子はとてもいとおしく感じられた。

「でも、付き合ってないんでしょ?」、私があっけらかんとそう訊いたことに、彼女はますます顔をこわばらせた。

「お付き合いする前から『別れて』って言うのは、ちょっと順序が違うんじゃあない?」、私が山親爺を齧りながら言うと、とうとう彼女は泣き出してしまった。私はちょっとしたいじめっこになってしまった様な気がして、ついオロオロしてしまう。

「…わかったわかった、あなたはそれだけセンセイのことが好きなのね。」

そう声を掛けてやって、とりあえずティッシュを渡す。彼女はぺこりと頭を下げながら、そのティッシュで目頭を押さえた。

「…だって、奥さんがいる人にアピールするのって、いかがわしいじゃないですか。」

ぼそりと呟いた彼女に、私はつい「あなたの倫理観は百点満点でいいと思うよ」と返してしまった。少しムッとした表情をした彼女に、私は苦笑いして「ごめんごめん」と伝える。「いや、でもさ、教師に手を出されてグダグダしちゃう生徒さんたちも多い中で、あなたは自分をしっかり持っていて、えらいね。あなたのご両親の教育方針、本当に素晴らしいんだろうなって感じちゃった。」

そんな会話をぽつぽつ重ねていく内に、彼女も少しずつ、自分についてをゆっくりと語り始めた。

国語が好きな彼女は、国語教師であり担任のセンセイこと私の夫を、いつの間にか好きになってしまっていた。とくだんイケメンじゃあないけれど(…おい!と私にツッコミを入れられて、彼女はそこでやっと笑ってくれた)、優しくて熱心で、進路相談にも真面目に取り組んでくれたセンセイと、卒業してもずっと一緒にいたい、そう思った—彼女の語る甘酸っぱい初恋に、私の心はきゅんきゅんして止まなかった。

もしも私が夫だったら、こんなに可愛らしい娘さんに恋心を抱かれてしまっては、間違いを犯さないとも限らない。ああ、私が夫の妻であって本当に良かった—私はそう思い、自分の立ち位置に感謝した。

うーん、と私は唸った。この娘さんをいかに傷つけず、話を進めていけばいいものか。専業主婦になる前は弁当屋の看板娘だった私に、そういうスキルは身に付いていない。こんなに頭をフル回転させたのは、一人暮らしだった夫の部屋で熟女もののAVを見つけてしまったその日の夜に、何も見ていないフリを貫いていた私へ贈られたプロポーズの言葉に、イエスとノーどちらを突き付けるか、それに悩んだあの日以来である気がする。

けれども私は、彼女がどれだけ思いつめてこの部屋を訪れたかに想いを馳せれば馳せる程、きちっと真面目に応えてやらねばと、その気持ちを強くしたのだ。

小一時間ほど、彼女をそこにそのまま座らせて、私はずっと唸っていた。いつの間にか彼女にも、山親爺を口にするほどの余裕は出来ていたらしい、否、余裕というよりそれは、やや私に心を開いた証拠だったのかも知れない。

「…わかった、じゃあこうしよう。」

私がやっとひねり出そうとしている答えに、彼女はまるで優等生みたいに「ハイ!」といい声で返事した。

「あのね、もしも私が今、夫と別れたとて…仮にあなたがセンセイのハートを射止められても、やっぱり中学生と教師が付き合うっていうのはまずいのよ、犯罪よ犯罪。」

私の言葉に、明らかに彼女はしゅんとした。その姿がどこまでもいとおしく、私は危うくもう少しで、彼女を抱きしめてしまいそうなところだった。

「だからさ…とりあえずあなたが社会人になるまで、私がセンセイを『お預かりする』っていうのはどう?」

私の提案に、彼女は「へ?」と裏っかえった声を上げた。

「あなたが社会人になって、立場上センセイとお付き合いしても何ら問題の無い存在になるまで、それまで私がセンセイを預かっておく。ああ、ウチは子どもを作る予定も無いのよ、いろいろあって…まあ、今はその話はいいとして。

だからあなたが社会人になってもまだ、今の様にセンセイを想い続けてくれたなら…その時は私も潔く夫と別れるから、正々堂々と勝負しましょう。

…それじゃ、ダメかな?」

彼女、なんて答えるかしら—そう思いながらどきどきと彼女の表情を窺うと、彼女は意外にも、大笑いを始めた。「…センセイの奥さん、なんか、変わってる!」、そう言って笑う彼女を見、私は、自分のひねり出した答えがとりあえず正解であった手ごたえを感じていた。ほっとして山親爺が進む。私は狂ったみたいにバリバリと山親爺を食べたけれど、彼女もやっぱり、私と同じように山親爺をバリバリと食べるのだった。

そうして私は、自分とは一回り以上歳の違う少女を好敵手として認め、いつかの未来に向けての約束を交わした。

「センセイの奥さんが、センセイの奥さんで良かったです。」

ストックから手土産として分けてあげた山親爺をエコバッグいっぱいに詰め、そう言って帰り際に、彼女は私へほほ笑んでくれた。なんて愛すべき少女だろう、どうせなら本当にずっとこの初恋を大切に抱いていって、いつか私と真剣に勝負して欲しいとすら思った。その戦いを経たならば、私たちは確実に、歳の離れた親友関係になれる気がする。

「あ、ところでさ、うちの夫、熟女専だよ!」、お土産をもう一つ、と私は彼女にそう告げた。「…じゅくじょ?」「そう、あのね、あなたのセンセイは結構なオバサンが好きなのよ。私はたまたまちょっと若かっただけというか、私こそ気の迷いで付き合っちゃった相手だったのかも知れない。」

その途端、彼女はいわゆるチベスナ顔になった。そうして流れた沈黙の時間は、わずかだったはずなのにやたらと重く長く感じられた。

彼女が帰ってしまった後の部屋は妙に広く感じられたけれど、もしも彼女の恋した相手が、隣室の数学のセンセイだったらと考えるとひやひやして、私は運命の神様にこっそりと感謝した。あの数学のセンセイの奥様なら、急にあんなに可愛い子が家を訪れて「別れてください」なんてやり始めたら—もう、考えただけで恐ろしい。学校全体を巻き込んだ一大事になっていた気がする。

私はふう、とため息をついて、ふたたびルピシアのお茶を淹れた。

午後には顧問の仕事を終えた夫が帰ってくる。

それまでに、彼女がここへ来ていた痕跡は綺麗さっぱり消してしまって、私は何にも無かった顔をして—そう、熟女もののAVを見つけたプロポーズの日みたいにそ知らぬふりをして—夫の帰宅を迎えるのだ。

これは、私たちだけの秘密。

私はふふっと笑い、もう一度、山親爺に齧りついた。


山親爺、マジで美味しいのでオススメです。


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