見出し画像

自分の存在価値を、自分の手で、この世に知らしめたい。

自分の夢とは、何の為に抱いているのだろう。

こないだ、本当にたまたま偶然、昔の知人のTwitterのアカウントを見つけてしまった。若かりし頃の私が、その人に嫌われるようなことをしてしまって切れた縁の仲だった。ので、当然、そのアカウントを見つけたところで相手に話しかけることもできない。

当時の私は今よりもずっと過酷な環境に置かれていた。ゆえに、当時の私のしたことを、私はどうしても責めることができない—なんて言うと、嫌われてしまったその相手は不愉快に思うだろう。赦してくださいなんて言えない。ただ私は、当時の、ずたぼろながら生きることに必死だった自分の嘆きを、その人との縁の代わりに「受け入れる」ほうを選ぼうと思う。私は自分に甘い—でも、いい加減に自分を否定する/もしくは否定「される」ことばかりの人生に、疲れてしまったのだ。

ところで、だ—その相手の「今」は、燦燦と、輝いているように見えた。

どんな苦しみを乗り越えて得た輝きかは計り知れない。その人は、私との縁が切れてからの十年ほどで、大概の人ならばとっくに諦めてしまっていそうな高い山を着実に登っていた。昔にその人が進んでいたはずの道を、完全に逸れはせずとも巧みに違ったルートを選び出し、そうして多くの人が諦めるばかりのはずのところを、その人はしっかりと登っていた—だから、元旦の日のご来光の如く神々しく、その人は輝きをたたえていたのだ。

—なんて書くとまどろっこしいが、要するにその人は、社会においての地位とか名誉と呼ばれる類のものを、しっかりと手にしていたのだ。

「すげえ、」と思った。だいぶ昔に初めて出逢った時と変わらず、その人はしっかりと自分の目標を見失わずに生きていた。これって相当すごいことだと思う。そうしてブレずに生きてきた人を、私は初めて身近に見つけたかも知れない。

すごい、とか偉いなあ、とか、感嘆の気持ちがひとしきり湧いてくるのを感じた後、ゆっくりと私の中に嫉妬心じみたものが生まれてきたのを感じ取った。まあ、そうなることは自分自身ながら察しがついていた。というか誰だっておおかたそうであろう。

私とは、立っている舞台が、業界が、違う。それでもやはり、私よりはずっと、その界隈では有名人であろう、そしてファンもたくさんいるであろうその人が、私はうらやましく感じられた。

ただ、私は—はて、どうして私は「うらやましい」と感じるのだろう、とも自らに対し疑問を抱いた。

私は、有名になってどうしたいのだろう?

子どもの頃の私は、たとえば絵を描くことも得意で、文章を書くこともそれ以上に得意だった。

ただしそれらで身を立てるなんてことをはまるで夢物語—そんな風に決めつけられてしまうのが当たり前の時代だった。今の、YoutubeやNFTで一攫千金みたいなことはまずありえない時代。だってそもそも、私が子どもの頃にはインターネットなんてここまで整えられていなかった。

私の母親は、私にありとあらゆるものを与えようとした。まあ毒親であったことは今までのnote記事でも散々っぱら語ってきたが、母は母なりに私に苦労をさせたくなかったのだろう。運動音痴極まりない私を水泳に通わせ、下手すぎた私は先生に、水中でお尻を何度もつねられた(それを知った母は激怒し、すぐに水泳教室を辞めさせてくれたが)。冬休みには否応なしにスキー教室に通わされ、寒いなあ嫌だなあと思っても、私に拒否権は無かった。

そろばん教室は私に向いていたらしく、週の約半分を費やしながら、二年間ほどで一級まで取って辞めた。一級まで取ったら辞めてもいい、と約束したから頑張った、というのが本音だ。

そうやって様々な習い事をし、塾にも通い、それでも結局私は、高校に入学した途端に授業についていけなくなった。それまで「運動神経は悪いが勉強はできるほう」という免罪符だけでどうにかやり過ごしてきた私が、とうとう何もできなくなってしまったのだ。あれだけいろんなことを、やってきたはずだったというのに。

高校は、成績が良ければ何でも許される面の強い場所だった。どうも、今でもそういった学校はあるらしい。ただしそうして難関大に合格できる人材を発掘するのも、勉強に特化した進学校の役割なのだろう。だから私は純粋に、自分に不向きな高校に入ってしまっただけのことだったのだ、きっと。

この辺りから私は「自分の存在価値」について悩み始めたように思う。

勉強もできない、運動もできない私が、生きていく意味—そんなようなことを見出そうと必死だった。美術部に入って絵を描いたり、ヴィレッジヴァンガードで安いアコギを買って練習したり、ひたすら小説を書いてみたりした。そう、私は—芸術に関わっていけばそこに自分の居場所を見出せるのではないかと、そんな期待を抱き始めたのだ。

家にお金が無かったことで、進路希望はかなり右往左往した。あの環境ならばきっと、就職を目指すべきだったのだろう。けれど就職が良しとされる高校では無かったし、あの頃の私のガキっぽさを含めたメンタルではきっと、正社員の仕事なんて一週間も続かなかったろう。

結局、私大の二部、つまり夜間の大学に推薦を貰った。日本文化学科でなら、小津安二郎の映画について学べるとかそんな謳い文句があったのだ。私は、映像や映画を学べるならば楽しいかも知れないと、淡い期待を抱いた。

札幌に、安くて狭い部屋を借りての一人暮らしだった。一人暮らしの資金を捻出して貰えただけでも幸せだったのだと、今になるとそう思える。とはいえ、あそこで母と離れて暮らせたことは確実に、私にとっていい影響を与えた。私はそこで初めて、自由な生活を得ることができたのだ。

当然、私も働かなくてはやっていけない生活だった。すぐにアルバイトを探し、大手の某古本店に採用された。それがきっと、その後の私の転機になった。そこには数多くのフリーターが勤めていた。そしてその多くが、自分の夢の為にフリーターの道を選んだ人たちだった。

印象深かったのは、演劇に携わる人たちがそれなりにいたことだ。なぜだろう、とずっと不思議だったが、最近になってこの記事を読んで「ああ、」と感じさせられた。

40年も前の話とはいえ、東京からUターンしてきた人たちが札幌で劇団を立ち上げたりしていたらしい。おそらくそういった土壌が札幌にはあったから、ということなのだろう、私のバイト先にいた人たちについても、きっと。

私と仲良くしてくれていた同僚の一人は、大学四年時に決まっていた内定を蹴ってまでして、紆余曲折しつつ演劇の道を志した、とも話していた。

それは私にとって少なからず衝撃を与えるエピソードだった…から、今でもこうして覚えているのだろう。

勉強でも運動でもないことで自らをこの世に立証しようとしている人たちが、その職場にはたくさん存在していたのだ。

そしてそれは、高校時代に思い悩むばかりだった私が、救いを求め、心から望んでいた生き方だった。

なんてことを、冒頭部分で語った昔の知人との(一方通行な)邂逅を通して、まじまじと思い出した私だった。

いろいろとあって私は大学も辞め、それからの人生、絵も描いたし小説も書いたし、結局今は音楽をやっている。

MVに使う為だったりで、絵も描いたりしているし、今もnoteで文章を書くことは続けているので、なんやかんやどれも辞めちゃあいないというのが実際のところだ。

ただ「本業」を一つ決めるとしたらばそれは音楽であり、そしてその音楽の道というのはまた非常に厳しい世界であって、最近になってやっと、サブスクでの再生回数からの収入が「何円」ではなく「何十円」を叩き出してくれるようになったところだ。

CMに出演させていただいたりもしたので、まったくもって報われない活動をしているのではけして無い。むしろ恵まれていることへの自覚もある。

それでも、音楽活動「だけ」で身を立てられない自分と、輝いて見える人とを比べて落ち込む自分が存在するのだ。

比べなきゃあいいだけ—そう頭では理解していても、私だって有名になりたいと、そんな風にモヤモヤする。

音楽以外でやっている仕事をしたくないから、というのは勿論大きい。

しかし—本心では、きっと私は「私を認めて欲しい」という自己承認欲求から、ひたすらに「有名になりたい」と思っているのだろう。

だとすれば、私が勇気をもらったかつてのバイト仲間たちも—もしかすると「認められたい」と苦しんでいたところがあったのかも知れない。

彼らがどうして自己表現を要する「本業」と、古本店での「兼業」を選んで生きていたのかは、今となっては知れない。でも、私の様に「自分の存在価値」について苦しみ、考えあぐねいた結果、見出した生き方だったというのなら—私は自分と物凄く近しい悩みや感性を抱いた人たちのそばで、あの頃、仕事をしていたのかも知れない。

結局は、私はこの世界に私の居場所を求めて、私が在ることを認めさせる為に、長らくの夢を抱き続けているのだろう。

嫉妬なんてしている暇はないのだ、私は所在なさげにしている高校生のままの自分を、自らの手で救ってやらねばならないのだから。

類まれなる運動神経を持つ人や、素晴らしい学力を持つ人…もちろんそれ以外にも様々な人がいて、様々な形で社会に携わり、一人一人の役割を担っている。

そういった中で私は、どうしても、自らの手で育んだ「芸術」でもって、私の存在価値を、この世に知らしめたいのだと—私は、そんな自分を認めてやりたい。そして、その願いを達成させてやろうじゃないかと、決意している。


頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。